New Generations 十日間の螺旋(中編) |
AkiRa(E-No.451PL)作 |
1.訪れた異変 | 5.父が守るべきもの |
2.シーグルの日記 | 6.焦燥と怒りの夜 |
3.混乱と恐怖の狭間で | 7.その時の二人 |
4.災いの連鎖、その記録 | |
〔執筆者あとがき〕 |
1.訪れた異変 【輝虹暦30年10月27日 23時】 |
何かが、狂い始めていた。 三日前のシーグルの死からか、彼と出会ったその時からか、あるいはもっと前からなのか―― 最初は、根拠のないただの不安だった。 シーグルが“動物たちの楽園”へ行く事を望み、その出発をやけに急いだ事も、旅路においてサナルが少女の幻を目撃し、同じ夜にシーグルがひどくうなされた事も、彼の右腕に不気味な黒いアザがあった事も。一つ一つは、取るに足らない出来事に過ぎなかったはずだ。そう思おうとしていた。 しかし、シーグルは死んだ。 センブラへ戻ってきてから数日後、彼が仕事場として借りていた小さな家で、誰にも見送られることなく。 その死に顔は眠るように安らかで、生命の営みだけが、彼の身体からすっぽり抜け落ちてしまったようだった。 死因は、まったくもってわからない。 シーグルは死の前日、サナル達に宛てて手紙を遺していたが、それは真相を語るにはあまりに短すぎた。 わかったのは、彼が自らの死を予測していただろうということ。そして、なぜかサナル達の今後を案じていた、ということだけだった。 もう一つの包みは、もしあなた方に良くないことが起こった場合に開いてください。 僕は身勝手な人間です。その時は、どうか恨んでいただいて構いません。 この不吉な言葉の真意は、まだ謎のままだ。 ただ、異変は既に起こりつつある。 「コテツ? 灯り消すよ、いい?」 二人部屋の向かい側に位置するベッドで、こちらに背を向けて横たわるコテツ。 彼にかけるサナルの声は自然と遠慮がちになったが、予想通り返事はなかった。 「……じゃあね、おやすみ」 溜息混じりに囁き、ランプの灯を消す。 シーグルが死んでからの数日間、ずっとこんな調子だ。何を話しかけても、貝のように口を閉ざしたまま一言も発しない。 しかも、変化はそれだけではなかった。 普段はあれほど室内に留まるのを嫌い、暇さえあれば街に出て歩き回っているコテツが、宿のこの部屋から外に出ようとしないのだ。 用を足すのも人目を盗むように行っているようだし、食事の時ですら下りてこないため、仕方なくサナルが部屋まで運んでやっている。 勿論、尋常なことではない。 プリシラとアヤも心配し、何かとコテツへの接触を試みてはいたが、それらは全て徒労に終っていた。 ――いったいどうしちゃったんだよ、コテツ……。 靄のように付きまとう不安と疑念、そして僅かな苛立ちを抱え、サナルは浅い眠りへと落ちていった。 夜半も過ぎた頃、微かに扉の開く音があった。 目を覚ますと同時に、人が部屋を出て行く気配を感じる。 扉が閉じ、足音が遠ざかるのを確かめてから、サナルは素早く起き上がった。 灯りは点けずに、まずはコテツのベッドを窺う。 思ったとおり、もぬけの空だ。その傍らで眠っていた“とら”が、主人の不在を察して不安げな声を上げる。 次に、サナルは窓際へと向かった。 そっとカーテンを持ち上げ、窓に面した表通りを見下ろす。ややあって、宿を出て歩いていくコテツの後ろ姿が見えた。 一体こんな時間に、どこに行こうというのか。訝る暇もなく、サナルの目はある一点に釘付けとなった。 コテツの背中に重なり、淡く光を放つ“もの”がいる。 よく目を凝らすと、それは人の形をしており、しかも幼い少女のように見えた。 後ろ向きで、顔はわからない。ただ、月明りを映したような銀色の髪には確かに見覚えがある。 先の冒険の中で野営の見張りに立った際、眠るシーグルの傍らに佇んでいた娘。幻の如く数瞬のうちに消えてしまった、あの少女に違いない。 どうして、彼女がコテツのもとに姿を現したのだろう? あの夜に見た少女の哀しげな顔、シーグルの不可解な死、豹変したコテツ。 もしかして、これらが全て繋がっているのだとしたら―― 胸騒ぎがした。自分は、何か大事なことを見落としてはいないだろうか? ――もう一つの包みは、もしあなた方に良くないことが起こった場合に開いてください。 脳裏に蘇るシーグルの言葉。そうだ、彼が伝えたかったのはきっとこの事に違いない。 自分たちに託されたあの包みの中に、全ての謎は隠されている。 サナルはランプを点け、サイドテーブルに視線を向けたが、そこに置いてあったはずの包みは忽然と消えていた。 慌てて記憶を辿り、この数日あれをとんと目にしていないことに気付く。コテツの異変に戸惑うあまり、すっかり失念していたのだ。 この部屋の物を自由にできるのは、サナル自身を除けばたった一人しかいない。 サナルは、再びコテツのベッドへと歩み寄った。 驚くとらに構うことなく、その周辺の捜索を開始する。 整理整頓が苦手なコテツの縄張りらしく雑然と散らかってはいるが、もともと私物の多い方ではないので、探し物にそう手間取ることはない。 あっけないほど簡単に、目的のものは見つかった。 ベッドの下、衣類などが積まれた籠の底に埋もれていた包みは、既に封が切られている。 乱暴に破られたと思しき跡が、コテツがこの中身に目を通したことを雄弁に示していた。 ごくりと息を呑み、恐る恐る“それ”を取り出す。 その正体は、青い表紙の日記帳だった。 もう後戻りはできない。意を決して、分厚い表紙を開く。 最初の日付は半年ほど前で、一ページ目を飾るにしてはやや素っ気無い文章になっている。おそらく、これは何冊目かの日記にあたるのだろう。 見覚えのある筆跡は、シーグルの手紙とまったく同じものだった。 前の方は大半が動物の研究内容で占められており、私生活を伺えるような記述はほとんど見当たらない。 生前の彼は「忙しくて家に帰ることができない」と言っていたが、その言葉に間違いはなかったようだ。 核心を求めて、さらにページをめくっていく。 やがて、サナルはある箇所でその手を止めた。 ――輝虹暦30年10月13日。 それは、シーグルがサナル達と出会う三日前のことだった。 |
2.シーグルの日記 【輝虹暦30年10月28日 0時】 |
10/13 近郊の山で、オオタカを一羽保護する。 足を骨折していたので、連れて帰り処置。 怪我そのものは大したことはないが、ひどく怯えているようだ。 右の翼に、インクが滲んだような大きな黒い斑点あり。 誰かの悪戯の犠牲になったのだろうか? 心無い者がいるものだ。 とにかく、できる限りのことをしようと思う。 10/14 今朝、オオタカは死んでしまっていた。 そう弱っていた様子もなかったのに、やはりストレスが大きかったのだろうか。 せめて、あのインクだけは洗い落としてやろうと思ったが、どういうわけか跡形もない。 とりあえず、手厚く葬ってやることにする。 昼過ぎ、街で黒毛のシバを見つけた。 やや気が弱そうだが人に慣れており、おそらくは迷子になった飼い犬だろう。 飼い主を探してみるが見つからず、やむなく連れて帰ることにした。 捨て犬でなければ良いが。 10/15 奇妙な夢を見た。 見知らぬ女の子が枕元に立って、僕があと十日の命だと言う。 十歳を少し過ぎたくらいの、綺麗な銀髪の子だった。 夢の中で寝ぼけていたこともあって、僕は真剣に取り合わずに 「冗談でもそんな事言ったらだめだよ」とか言った記憶があるが、その子は随分と悲しそうだった。 彼女はすぐに消えてしまったが、その表情だけは印象に残っている。 それにしても、不思議な夢だ。 十日後に思い出せるよう、日記に書いておくことにする。 昨日のシバは元気で、多少は僕に慣れてくれたようだ。 ただ、今日も飼い主を見つけることはできなかった。 10/16 ようやく、シバの飼い主が見つかった。 二人の少年たちで、十四歳という若さで冒険者をしているらしい。 実際、僕よりは大分鍛えているようだ。 シバ(“とら”という名前らしい)を引き渡した後、彼らと話をする機会を得た。 ついつい話しこんでしまったが、おかげで“楽園”への護衛を引き受けてもらえることになった。 無理を言って出発を早めにしてもらったが、彼らの仲間に女性と老婦人が含まれていたことを考えると、いささか図々し過ぎたかもしれない。 ただ、今は一刻も早くあの場所へ行きたい。 気になることがある。 夢に出てきた、あの女の子だ。 昨日の夜、彼女は再び僕の枕元に現れ、今度は「あと九日だ」と言った。 その子は黙って僕の右腕を指差し、僕はそこに大きな黒い斑点があるのを見た。 信じようと信じまいと、それが選ばれた証なのだと、女の子は言う。 そして、目が覚めた今でも、その斑点は僕の腕にある。 夢とはいえ、不気味なことこの上ない。 明日は早い。今日は何も考えずに休もう。 10/19 ついさっき、センブラへと帰ってきた。 僕は今、どうしようもないくらい混乱している。 ここ最近の夢。あれは、夢などではなかったのだ。 旅の間も、女の子は夜ごと僕のもとへやって来た。 日を追うごとに、確実に減っていく僕の命数。 とうとう耐えられず、僕は彼女に訊いてみることにした。 君はいったい何者なのか。今、僕の身に何が起こっているのかと。 女の子は、自らを“死神の使い”と名乗った。 彼女の主たる“死神”は、生物の命を糧としており、その食事は十日ごとに行われる。 餌となる生き物の身体に潜み、九日間の眠りの後、十日目の朝にそれを食らうのだそうだ。 そして、“死神”は新たな餌を求めて他の生き物の身体へと移る。 ただ、引越し先は誰でも良いわけではないらしい。 前の餌が“死神”をその身に宿した十日間に接触した個体に限られ、またその中では“人間”という種が最も優先される。 つまり、僕はあのオオタカから“死神”を譲り受けてしまったわけだ。 例の黒い斑点は、“死神”が身体の中にいるという印らしい。 “楽園”で、僕は親を失った仔犬を見た。 僕がこのまま死んだら、ウルフはあのように泣くのだろうか。 それとも、ろくに家に帰りもしなかった父親のことなど忘れてしまうだろうか。 やりきれない。どうしたら良いのだろう。 10/20 残された時間で、家族にできることを考えた。 僕は、もう家には帰らない。 帰れば、アナベラとウルフを命の危険に晒すことになる。 いくら好き勝手に生きてきた僕でも、それだけはできない。 そして、同時に僕は罪を背負う。 これから人の接触を断つとなると、この十日間で僕が接触した人間は自然と限られる。 僕の我侭に好意で付き合ってくれたあの子たちを巻き込む可能性は大きい。 家族のために他人を犠牲にする。これも、決して許されない行為だろう。 でも、もう後戻りはできない。 僕にできるのは、ただ祈ることだけだ。 10/21 寝ても覚めても、アナベラとウルフのことだけが浮かぶ。 今まで、僕は何をしていたのだろう。 感謝の気持ちすら、僕はもう自分の口から伝えることができない。 10/22 怖い。 死にたくない。 10/23 もし、明日という日を迎えることができたとしたら。 僕はこれからの生を、全て家族に捧げようと思う。 そして、僕が犠牲にしようとした彼らに心から謝りたい。 ごめんなさい。 許してくれなくていい。 恨んでください。 罵ってください。 生きたい。 ――日記は、そこで終っていた。 涙の跡でふやけたと思しきページ、震えて滲んだ文字から、目を離すことができない。 「……っ!!」 堪えきれず、両手を叩きつけるように日記帳を閉じる。 全身が小刻みに震え、背中といわず首筋といわず、とめどなく冷たい汗が流れていた。 記されていたのは、あまりに残酷な事実。 これに、ここ数日の状況を重ねると何が見えてくるのか。 ――答えは、たった一つしかない。 「じゃ、じゃあ……コテツは、どうなっちゃうの……?」 思わず口をついてでた言葉が、恐怖を際立たせた。 そんなはずはない。これはきっと何かの間違いだ。そうに決まってる―― 混乱する思考が、サナルから周囲への注意力を完全に奪っていた。 ようやく背後に気配を感じた時には、もう遅い。 いつの間に戻ってきていたのか、部屋の扉を背にコテツが立っていた。 |
3.混乱と恐怖の狭間で 【輝虹暦30年10月28日 1時】 |
「コテツ……」 振り向いた先、扉の前に立つコテツの表情はどこまでも険しい。 彼の視線はただ一点、サナルの手にある日記帳に注がれていた。 「見たのか」 「……」 低く、重い問いかけ。思わず、言葉を失う。 コテツは歩み寄ると、凄味をきかせてサナルを睨んだ。 「見たのかって、訊いてんだよ」 手負いの獣のような、張り詰めた獰猛さを湛えた目。 その迫力に押され、一歩下がろうとしたその時、コテツの両腕が伸びた。 「はっきり言いやがれッ!! 見たんだろがっ、それを!?」 胸倉を掴まれ、怒声とともに身体を大きく揺さぶられる。 間近で見たコテツの顔は、かつて見たことがないほど歪んでいた。 殺気すら感じられる形相に息を呑み、されるがまま、ただそれを眺める。 「……そんな目で見るんじゃねぇッ!!」 激昂したコテツの叫びが耳を打ち、直後、サナルの身体は二本の腕で宙吊りにされていた。 引っ張られた服が首筋に食い込み息が詰まったが、怒りに我を失ったコテツはそれに気付かない。 「何とか言いやがれ、この……ッ!!」 さらに声を張り上げるコテツに、サナルは手足をばたつかせて必死に抵抗する。 「コテツ! やめてよ、苦しいってば!」 本気で殺される。そう思った瞬間、コテツは突如その手をサナルから離した。 乱暴に床に落とされ、したたかに尻を打ったが、激しく咳き込んで痛みを感じる暇もない。 いつもなら抗議の一つでも言ってやるところだが、そんな事をしたら今度こそ命の保証はない気がする。 それほどまでに、今日のコテツは鬼気迫っていた。 「はぁ、はー……」 ようやく落ち着き、長い息を吐く。 恐る恐るコテツを見上げると、いささか苦い表情で俯く彼と目が合った。 こちらも、少しは冷静さを取り戻したらしい。 コテツはバツが悪そうに目を逸らした後、ぶっきらぼうに口を開いた。 「……いいか、婆さんとアヤには言うなよ」 「え?」 言葉の意味が、よく理解できない。 パーティの年長者で、知恵袋でもある彼女らに報せず、どうしようと言うのか。 「な、何で!?」 「何でもクソもあるか。いいから黙っとけ」 困惑するサナルに、まるで突き放すようなコテツの声。 「そんな……!」 事は一刻を争う。 こうやって、言い争う時間も惜しいくらいなのだ。 それとも、コテツはこのまま座して死を待つつもりか。 断じて、そんな事は認めるわけにいかない。 サナルが絶句すると、コテツは僅かに気遣わしげな表情を向けてきた。 「あー、でもお前には悪いかもな。俺が死んだら、次はお前だろーし」 次。“死神”の、次の獲物。 そうだ。コテツが死んだら、その次は―― 経路が十日間に接触した者に限られるならば、一番選ばれる可能性が高いのはサナルに他ならない。 戦慄すべき事実が刃の如く心に迫ったが、サナルは辛うじて恐怖を打ち払った。 「……だ、誰もそんなこと言ってないだろっ!?」 自らの声が震えるのを忌々しく思いつつ、コテツにくってかかる。 考えるべきは、“次”ではなく“今”なのだ。 手を打たなくては、確実にコテツは死ぬ。 思いは、そのまま口をついて出た。 「いいのかよ!? 放っといたら死んじゃうんだぞ!」 「……」 黙り込むコテツに、徐々に苛立ちが募る。 コテツは強い。剣の腕も、度胸も、今のサナルが敵う相手ではない。悔しいが、それは事実だ。 でも、だからといって。 自らの死さえ平然と受け止め、最期まで男の意地を貫き通すなど。 そんな強さが、あってたまるか。 「カッコつけて死んだって、いい事ないじゃんか!」 「……」 それでも、コテツは答えない。 サナルの我慢も、とうとう限界に達した。 「コテツのバカっ!! 本当に怖くないのかよっ!」 無我夢中で飛びかかり、体重を乗せてぶつかっていく。 流石のコテツも不意を突かれたか、大きく後ろによろけて壁へと叩き付けられた。 そのままバランスを崩し、もろともに倒れる。 上を取ったサナルは、下敷きとなったコテツの胸倉を掴んだ。 「そうやって、ずっと一人で……!」 ――おれの届かないとこに行っちゃうつもりなのかよ、お前は。 続く言葉は、しかし最後まで言わせてはもらえなかった。 「――うるせぇッ!!」 絶叫。 直後、ずしりと重みを増すコテツの身体。 震えが、腕を通してはっきりと伝わってきた。 「怖いんだよ。怖いに、決まってんだろ……ッ!!」 信じられない。 コテツが、泣いている。 暗闇に怯える子供のように、しゃくり上げ、頬を涙で濡らしているのだ。 「だからって、俺にどうしろってんだよ……?」 はっとして、しっかり掴んだままのコテツの胸元を見る。 普段はタンクトップに隠れている胸の真ん中。そこに、あの黒いアザがはっきりと浮かんでいた。 “死神”の餌に選ばれた証。逃れられない死の刻印。 この三日間、コテツはどんな思いでこれを眺めただろう? 耐えていたのだ。恐怖に押し潰されそうになりながら、たった一人で。 誰にも言わなかったのではなく、言えなかった。 口に出したら、本当に死が間近に迫ってくるような気がして。 唐突に理解する。コテツもまた、自分と同じなのだと。 どんなに強く見えても、まだ十四歳なのだ。やりたい事は、幾らでも出てくるだろう。 死ねば全てが終る。その先はなく、何もできない。 恐れないはずはなかった。 「コテツ……」 「……死にたかねえよ。畜生……畜生ぉ……っ!!」 片手で顔を押さえ、泣きじゃくるコテツ。 かける言葉などありはしない。ゆっくりと手を離し、やりきれない思いで俯く。 その時、小さな手がそっとサナルの肩に触れた。 ゆっくり顔を上げると、目の前にはあの少女の姿。 コテツの傍らに膝をつくようにして、泣き続ける彼の顔をじっと覗き込んでいる。 その表情は、やはりどこまでも哀しげだった。 |
4.災いの連鎖、その記録 【輝虹暦30年10月31日 15時】 |
珍しく、アヤは焦りを感じていた。 この四日間、図書館へと入り浸り、魔法に関する蔵書を片っ端から読み漁った。 無論、“死神”に憑かれたコテツを救うためだ。 あの夜、騒ぎを聞きつけてプリシラとともに彼らの部屋を訪ねた時。 アヤが見たのは、壁にもたれて泣くコテツと、その傍らに寄り添う銀髪の見知らぬ少女、そして彼らを呆然と眺めるサナルの姿だった。 これは一体どういう状況なのか、傍目にはすぐ判断できなかった。 間もなく少女は透けるように消えてしまい、アヤたちはサナルに状況の説明を求めた。 ――生物に取り憑き、十日ごとにその生命を食らう“死神”。 俄かには信じ難い話だが、シーグルの日記を読み、コテツの胸のアザを目の当たりにしては、それを認めざるを得ない。 翌朝から、パーティは慌しく動き始めた。 コテツを救うためには、まず“死神”の正体を暴かねばならない。 アヤは勿論、プリシラですら初めて聞く存在ではあったが、おそらくは魔法的な法則に従って動いているのだろう。 古い文献を紐解けば、あるいはその対処法もわかるかもしれない。 人との接触を避けなければならないコテツを宿に残し、アヤはサナルを伴って図書館へ行くことにした。 それからは、ずっと本と首っ引きの生活である。 開館とともに足を運び、閉館まで粘って宿に戻り、別行動のプリシラと情報を交換し合う。何でも、彼女には独自のつてがあるらしい。 しかし、そんなアヤたちの努力と、プリシラの人脈をもってしても、成果は芳しくなかった。 情報は徐々に集まりつつある。しかし、肝心の解決策――“死神”を祓う方法がまったく見つからないのだ。 シーグルの記録、そして“死神”の使いたる少女の言葉が正確であるならば、コテツの命日は11月3日の朝であるはずだ。 時間は、今日を含めてもあと三日しか残されてはいない。 まずは落ち着こう。こういう時にこそ、冷静にならなければ。 「アヤさん、本ここに置いとくね」 「ありがとう、サナル君」 サナルが積み上げた新たな本の山に目を向けつつ、今までの収穫を頭の中で反芻する。 ――輝虹暦10年。 今から二十年前、この地が“虹の王国”として栄えていた時代。 “虹の王”ウィリアム・ヘンリーの居城が置かれていた中央都市オズに、一人の魔導士が住んでいた。 名前は、明らかにされていない。ただ、娘が一人いたとだけ記されている。 彼は、召喚魔法の研究者だった。 儀式により魔力を練り上げて“門”を開き、さまざまな能力を持った魔獣を呼び出す高等魔術。現代においてすら、ごく僅かな使い手しかいないその技術を、彼は手にしようとしていたのである。 やがて、彼は大掛かりな召喚実験を行ったが、それは失敗に終った。 暴走した魔力は、“門”から恐るべき異界のものを呼び寄せてしまったのだ。 文献の中で“悪魔”と名付けられたそれは、儀式に携わった者たちほぼ全員を一瞬のうちに喰らい尽くし、別室から様子を窺っていた魔導士の娘を連れ去った。 助手として儀式に立ち会い、唯一生き残った男は、この惨劇を伝えた後に発狂死したという。 そしてもう一つ、オズには“死神”の伝説があった。 それは、ある日突然少女の姿を取って現れ、その者に残された時間が僅かである事を告げる。 “死神”に憑かれた人間の数は決して多くはなかったが、一度宣告されれば逃れる術はなく、彼らは例外なくこの世を去っていった。 人々の間には「次は自分では」という恐れが広がり、とうとう彼らは犠牲者とその家族を追い立てるという暴挙に出た。 次の標的になり得る者もろとも“死神”を遠ざけてしまえば、少なくとも自分たちの身の安全は確保できる。 この目論見は功を奏し、オズの市民は“ごく僅かな犠牲で”恐怖から解放されたのである。 以上が、現状で得られた情報の全てである。これら二つの記録から推測できる事は何か? まず、あの夜コテツの傍らにいた少女が、伝説の“死神”であることはほぼ疑いようがないだろう。さらに付け加えるならば、“悪魔”に連れ去られたという魔導士の娘こそ、彼女である可能性が高い。 “悪魔”の正体については推測の域を出ないが、おそらくこの世界とは異なる法則のもとで生きる存在であろう。 そのため、“悪魔”は呼び出されてすぐに自らが生き延びる術を探さねばならなかったはずだ。 魔導士たちの生命を喰らい、間に合わせのエネルギーを得た“悪魔”は、次にこの世界の生き物と同化することを考えた。そうすれば、とりあえず自らの存在は安定する。消滅を避けられるだけでなく、糧を得るにも効率が良いだろう。 そして、選ばれたのが魔導士の娘だ。乗っ取って意に従えるには、より弱い個体の方がやりやすい。 こうして“悪魔”はまんまと拠り代を手に入れたのだ。 後は、生き残りの男にでも取り憑いてしまえば、餌に困ることはない。 普段は眠り続け、食事の時だけ目を覚ます。その状況下ならば、十日に一度、それもたった一つ生命を喰らうのみで自らの存在を繋いでいける。 “悪魔”にとっては、生きるための知恵であったのだろう。 しかし、この世界に住まうものにとって、それは十日ごとに繰り返される呪いに他ならなかった。 やがて、“死神”を恐れたオズの住人たちの手で、呪いは一度断ち切られたかのように見えた。 不幸な犠牲者とその家族が、どのようにして自らの運命を受け入れたのかはわからない。 しかし、彼らが言いつけを守り、二度と人里へ戻ることがなかったことだけは確かだ。 行き場を失くした呪いは、様々な動物たちを介しながらセンブラの山中に辿り着き、そこで静かに十日間の営みを繰り返していた。 シーグルの手によって、再び人の世界に戻ってくるまで―― 思わず、アヤの口から溜息が漏れた。 ここまではわかっている。 少ない情報に基づいた推測ではあったが、限りなく事実に近いところまで近づけたという手応えはあった。 だが、それだけだ。 “原因”が解き明かせても、“対処”できなければ意味がない。 一体どうすれば、“死神”に憑かれた者が死を免れることができるのか。 その方法が見つからない限り、コテツは確実に死ぬ。そして、いずれはアヤ自身にもそれが降りかかるのだ。 軍事国家であるセンブラの図書館には、魔法に関係する蔵書はそう多くない。 主だったものは、もうほとんど目を通してしまっている。先ほどサナルが運んできた本の山も、おそらくはあまり役に立たないだろう。 せめて、もう少し良い資料が手に入れば。 アヤの故郷、交易都市トワークは学術都市としても名高い。魔法の研究も盛んであるから、この手の調査には打ってつけであるはずなのだ。 しかし、センブラからトワークまではどんなに急いでも往復で一週間はかかる。 近道を行くには危険な沼地を通らねばならず、現在のパーティの実力では突破は難しい。 どうにも、身動きが取れない状況だった。 時間がない。 現在手に入る情報だけで、どうにか手段を考えねばならない。 自分の力で、何とかするしかないのだ。 ――パパ。 アヤが生まれる前に、母を置いて失踪してしまったという、まだ見ぬ父。 医師であり、魔術師であり、錬金術師でもあったという彼ならば、この難問にどう立ち向かうのだろう。 初めて、アヤは自らの無力に打ちのめされていた。 |
5.父が守るべきもの 【輝虹暦30年10月31日 17時】 |
城砦都市センブラ、西地区。 街の中心から少し外れたこの区画には、閑静な住宅街が広がっている。 夕闇に包まれかけた表通りを、プリシラはゆっくりと歩いていた。 北の国境に接するサイシック帝國の脅威に晒され、常にその防衛線であり続けるセンブラは戦士の街だ。 傭兵として集まる者の中には腕自慢を名乗るごろつきも少なくなく、不安定な情勢の中で治安は決して良いと言えない。 しかし、この西地区だけはいささか例外であるようだ。 少なくとも荒くれ者の怒鳴り声が聞こえたり、喧嘩で人だかりができることはそう多くないだろう。 勿論、犯罪に巻き込まれる可能性は皆無ではないが、万が一の事態であっても多少腕に覚えがあればどうにかなるものだ。 剣の力に対抗し得るのは、何も武器ばかりではない。プリシラには、その手段がある。 ただ、この時彼女の中にあるのは周囲に対する警戒ではなかった。 「――ここも懐かしいの」 街並みを眺め、感慨を込めて呟く。 以前ここを訪れたのは、もう十年以上も前のことだ。 もっとも、このような事情で再び足を運ぶとは思っていなかったが……。 その“理由”を思い浮かべ、心は自然と沈みがちになる。 やがて、プリシラは小さな公園へと足を踏み入れた。 日の暮れようとしているこの時刻に、子供たちの遊ぶ姿は見当たらない。 待ち人が到着するまで、彼女はベンチに腰を下ろすことにした。 しばらく、そうやって座っていただろうか。 辺りも暗くなりかけた頃、背後から低い声がかかった。 「人をコソコソと呼び出して、何のつもりだ?」 振り返ると、そこに待ち人の姿。 プリシラは相好を崩し、やって来た男を眺めた。 「シロー」 彼の名はシロー・オサフネ――コテツの実の父親である。 後ろに束ねた長い黒髪、中背ながら無駄なく引き締まった逞しい身体。面影は、父子だけあってよく似ている。 コテツに年齢を重ね、不遜なまでの豪胆さを加えれば、おそらくこんな顔になるだろう。 年齢は既に四十路を過ぎたはずだが、身に纏った気迫はいささかも揺らぐことはない。 普段着に丸腰であっても、戦士としか見えない男であった。 「久しぶりじゃの、元気にしておったか? リンファンとユィファも……」 「見ての通りだ。うちの女どもは、うるさいくらいで逆に困る」 挨拶を兼ねてシローとその家族の安否を問うと、彼は軽く肩を竦めて素っ気無く答えた。 かつて“虎”と呼ばれた男も、家庭では妻や娘に頭が上がらないらしく、そのギャップが妙に可笑しい。 「それは何よりじゃの」 コテツには知る由もないことだが、プリシラとこの一家の間には深い関わりがある。 プリシラの母、セシリア・フェアフィールドが、当時少年であったシローと出会ってからの、親子二代の縁だ。 ともに、大きな戦いを潜り抜けてきた間柄でもある。 シローは卓越した戦闘力で、セシリアとプリシラは裏社会に通じたフェアフィールド家の人脈と組織力で、それぞれが必要な時に手を携えてきた。 今もその関係は変わることはないはずだが、プリシラたち母子にとって“オサフネ”の名はただの協力者では終らない。 手のかかる親戚の子を慈しむように、見守るべき存在なのである。 シローの一家が故郷から遠く離れたこの地に移り、センブラに居を構えてからも、交流は途絶えることはなかった。 コテツのことも、彼がまだ母親の胎の中にいた時から知っている。実際に顔を合わせたのは随分と幼い頃で、そのため本人はプリシラを覚えていないようだが、それでも彼女にとってコテツは自分の孫も同然だ。 だからこそ、プリシラは今日ここにやって来たのだ。 そろそろ本題に移ろうと口を開きかけた時、シローが先にプリシラを促した。 「――で? わざわざ世間話をしに来たわけじゃないだろう」 「その事なんじゃが……」 まず、どこから話したものだろうか。 父親に、血を分けた息子が死の危機に瀕している事実を知らせるのは辛い。まして、有効な対処法が何一つ見つからない現状においては。 思わず口篭るプリシラに、シローが事も無げな一言を発する。 「馬鹿息子が、野垂れ死にでもしたか」 自分が現在コテツと行動をともにしていることは、シローには伝えてはいなかったはずだ。 驚いてシローの顔を見ると、彼は面白くなさそうに言葉を続けた。 「同じ街にいるんだ、それくらいはイヤでも耳に入る」 この男はこの男なりに、息子の動向を気にしてはいたらしい。 それを悟り、プリシラもとうとう迷いを捨てた。 「そうかの。実は……」 覚悟を決め、全てをシローに語る。 コテツが“死神”に憑かれてしまったこと。 できる限りの手を尽くして救う方法を探してはいるが、成果は思わしくないこと。 このままでは、三日後の朝には確実に命が尽きてしまうだろうということ。 その上で、プリシラは懇願した。 最悪の結末を迎える前に、コテツに一目会ってやって欲しいと。 今、彼は人との接触を避け、たった一人で死の恐怖に耐えている。 本人の性格を考えても、自分から家族のもとに帰りたいとは決して言わないだろう。 十四歳の少年がそうやって死んでいくのは、あまりにも不憫だ。 せめて、父親にだけでも会わせてやりたい。 だが、そんなプリシラの思いは冷徹なシローの返答に砕かれた。 「――断る」 迷いもせず発せられた拒絶に、さしものプリシラもしばし声を失う。 しかし、ここで簡単に引き下がるわけにはいかない。 「もう時間がないんじゃ。手立てが見つからなければ……」 「だからどうした。俺が行って、どうにかなるとでも言うのか」 遮るようなシローの言葉には、何の感慨も込められてはいなかった。 「じゃが……」 なおも食い下がるプリシラに、シローの揺るぎない眼光が向けられる。 「会うのは簡単だ。だが、女房と娘はどうなる」 もし、シローがコテツに会えば。 それは、“死神”の次の餌として選ばれる可能性が発生することを意味する。 家長たる自分がむざむざ死ぬわけはいかないし、何よりも妻や娘に累を及ぼしたくはない。 たとえ、ここで息子を見殺しにしようとも―― 彼の意図を悟り、プリシラもとうとう沈黙するしかなかった。 「あの阿呆に言っとけ。甘ったれる前に、てめえの火の粉はてめえで払えってな。 それもできないような奴が生きようが死のうが、知ったことか」 突き放すように吐き捨て、踵を返すシロー。 これ以上話すことなどないと、何よりもその背中が語っていた。 「シロー……」 「俺はあいつをそうやって育てた」 諦めきれないプリシラに、シローは振り返らずに答える。 「――ま、死んだらそこまでってことさ」 ごく軽い口調とともに手を振りつつ、彼は泰然と歩み去っていった。 その姿を見送り、大きく溜息を吐く。 日が落ちて暗くなった公園に、プリシラのやりきれない思いだけが残された。 |
6.焦燥と怒りの夜 【輝虹暦30年10月31日 21時】 |
時間とともに、希望が失われていくのがわかる。 行動を起こしてから早くも四日が過ぎ、タイムリミットは三日後に迫っていた。 11月3日の夜明けが“その時”だとすると、猶予はあと丸二日しか残っていない。 依然として、“死神”の呪いから逃れる方法は掴めないままだ。 サナルたちは宿の食堂で遅い夕食を摂っていたが、その手はどうしても止まりがちだった。 蓄積した疲労と不安が、どうしようもない脱力感となって襲いかかって来る。 空腹も眠気も、どこか一枚壁を隔てた場所に行ってしまったようで、現実味がなかった。 いっその事、すべて夢であってくれれば良かったのに。サナルは、何度そう思ったことか。 このまま、手をこまねいて見ているしかできないのだろうか。 コテツの死を見送り、“死神”の獲物に選ばれて死んでゆく。それが、運命だというのか。 「……っ!」 弱気を振り払うように、皿に盛られたサラダをフォークでかき回す。 冗談ではない。諦めたら、そこで何もかも終わりだ。 冒険を夢見て、妹とともに故郷の大陸を飛び出したサナルにとって、コテツはこの地でできた最初の友達だった。 何かと兄貴風を吹かせ、自分を子ども扱いしてくるのが気に食わないが、それでも大切であることに変わりはない。 それに、サナル自身もまだ死ぬわけにはいかないのだ。 この国に辿り着く前、洋上の嵐によってはぐれた双子の妹・サリア。彼女の無事を確かめ、再び巡り会うまでは。 おれは絶対に死なない。コテツだって、死なせたりはしない。 呪文のように繰り返してきた言葉は、だがいつも同じ疑問に遮られた。 ――でも、どうやって? 一向に減らないサラダを前に、サナルが何度目かの溜息をついた時。 向かい側に座っていたアヤが、静かに席を立った。 「ごちそうさま。――もう、休みます」 彼女の皿には主菜がほとんど手付かずのまま残されており、自室に向かおうとするその姿は疲労の色が濃い。 ここまで憔悴したアヤを見るのは初めてだ。 改めて、突きつけられる現実。全員が限界に近付いていることは、もう誰の目にも明らかだった。 「ねえ、おばあちゃん……」 フォークをテーブルに置き、斜向かいのプリシラに声をかける。 こちらを向いた顔は、やはりいつもの溌剌さに欠けていた。 「何じゃ? サナル」 「コテツ、家に帰らせた方がいいんじゃないかな」 この数日間、ずっと喉に引っかかっていた言葉。それを、ようやく口にする。 コテツは、相変わらず自室に籠ったままだ。無論、“死神”による被害の拡大を防ぐためである。 泣くだけ泣いて少しは気が落ち着いたのか、あれからの彼は騒ぎもせず、一日一日をただ静かに過ごしている。 何かを考え込むようにじっとしていたり、窓の外をぼんやり眺め続けていたり。それに、時折ひどく思い詰めた表情が混じる。 身体が震えるほど強く拳を握り締めていたことも、一度や二度ではない。 刻々と迫り来る死の恐怖との、孤独な戦い。話す相手もなく、黙って耐えるには、あまりに辛すぎる。 放っておけば、精神の方が先に壊れてしまうかもしれない。 「もう、見てられないよ」 幸い、コテツの実家はこのセンブラにあると聞いた。 状況は変わらずとも、家族の傍にいればいくらかは心安らぐだろう。 無論、自分たちも全力でコテツを救う方法を探し出す。 “死神”の呪いさえ何とかしてしまえば、家族に危険が及ぶ心配もないはずだ。 サナルはそう力説したが、しかしプリシラは苦い表情で言葉を濁した。 「ワシも、それが良いと思うんじゃが……」 「どうかしたの?」 首を傾げるサナルに、プリシラがやや低い声で言う。 「――今日、コテツの父親に会って来たんじゃよ」 「え……?」 これは、まったく予想しなかったことだ。 ならば話は早いではないか。 そう言いかけて、サナルはプリシラの眉間に深く皺が刻まれていくのを見た。 「せめて、父親だけにでも会わせてやりたかったんじゃが」 続いて、残酷な事実が告げられる。 「断られたよ。そのために、妻や娘を危険に晒すわけにはいかんと……」 「そんな!」 まさか。実の父親が子を見捨てるのか。 如何に妻や娘を守るためだとはいえ、息子が苦しみに喘いでいると知りつつ、見てみぬふりを通すというのか。 他の家族が無事であれば、息子は生きようが死のうが構わないと……? 信じたくはなかった。この世に、そんな父親がいるなどと。 サナルの胸に、激しい怒りが湧き起こる。会ったこともない、コテツの父親に対して。 わなわなと全身を震わせるサナルを宥めるように、プリシラが声をかけてくる。 「仕方がないんじゃよ、サナル。あの男なりに、考えた結論じゃ」 考えたから何だ。だったら、子を見殺しにしてもいいというのか。 いくらプリシラの言葉であっても、納得はできない。 「でも……だって、だって!」 認めたら、コテツは本当に一人になってしまう。 親に捨てられた子供ほど、哀れなものはない。 故郷にいるはずの父と、今は亡き母の姿が、サナルの脳裏に浮かんでは消えていく。 「そんなこと……っ!!」 必死に声を絞り出しながら、サナルは駄々をこねる子供のように首を横に振り続けていた。 |
7.その時の二人 【輝虹暦30年10月31日 22時】 |
もやもやとした感情が、澱のように胸の中で蟠っている。 理由はどうあれ、実の父親が死に瀕する息子を見捨てたという事実が、サナルの心に大きな衝撃を与えていた。 決して裕福ではなかったが、暖かい家庭に育ったサナルにとって、家族の愛は無条件の絆だった。 母親を亡くした時は心に穴が空いたように悲しかったし、はぐれたきり行方の知れない妹の身を案じない日はない。 子を持つ親の気持ちはまだわからないが、親が子に向ける想いは、子の親に対するそれよりも、さらに大きなもののはずだ。 少なくとも、サナルは父や母が自分たち兄妹を深く愛していることを、疑ったことなどなかった。 でも、コテツの父は違うのだろうか。 彼が息子に会うのを拒んだのは、“死神”の呪いが妻と娘――コテツの母と妹――まで波及するのを防ぐためらしい。 父親が家族を守るのは当然のことと思う。しかし、その対象には息子も含まれて然るべきだろう。 コテツの父親は屈強の戦士であるとプリシラから聞いたが、そんなに強いのであれば尚のこと、何とかしてやれば良い。 力で対処できる問題でないことは知っている。しかし、だからと言って動こうともしないとなれば、それは薄情と謗られて当然だ。 まして、それが子の命の危機であれば……。 もう、何を信じて良いかわからない。 既に怒りを通り越し、絶望にも似た無力感が心を支配しようとしている。 また一つ、大きな溜息が漏れた。 この時間、食堂のテーブルについているのはサナル一人だけだ。 味気ないばかりの夕食はとうに終えていたが、なかなか自室に戻る気になれなかったのだ。 今は、コテツと顔を合わせるのが辛い。 プリシラがコテツの父に会ったことを伝えるつもりは毛頭なかったが、心に仕舞っておくにも苦痛が付きまとう。 しかし、いつまでもここに座っているわけにはいかない。明日も朝は早いのだ。 “死神”を祓うという難問を解くためには、少しでも頭を休めておく必要があった。 この状態で眠れるかどうかは、正直言って自信はないが。 意を決して、自室へ続く階段を上る。 扉の前に立ち、大きく深呼吸をしてから、ノブに手をかけた。 動揺を、コテツに悟られてはいけない。 そっと扉を開けて部屋を覗き込むと、コテツはまだ起きていた。 灯りも点けず、カーテンの開かれた窓から月の光が差し込む中、ベッドに浅く腰掛け、あの銀髪の少女と小さく言葉を交わしている。 話の内容までは聞き取れないが、険悪な様子は微塵もなく、むしろ互いを気遣うような表情さえ見受けられた。 あの少女が“死神”の使いであると知らなければ、顔の似てない兄妹だとすら思えたかもしれない。 「……けどよ……」 サナルの耳まで届かないコテツの囁きに対し、少女が微かに首を横に振る。 二人の間に流れる空気は、どこまでも静謐で優しく、そして哀しげだった。 しばらく部屋に入るに入れずにいると、やがて少女が扉の前に立ち尽くすサナルに気付いた。 振り向いた彼女の視線を追うように、コテツもこちらを見る。 気まずさに思わず逃げ出したくなったが、当のコテツは意に介した様子もなく、とっととベッドに潜り込んでしまった。 「もう寝る、おやすみ」 「うん、おやすみ……」 毛布を被って背中を向けるコテツに声を返し、自らのベッドに横になる。 あの少女は、いつの間にか姿を消していた。 ――コテツの命運が尽きるまで、あと二日。 それは、生きるにはあまりに短く、苦しむには長過ぎる時間のように思われた。 |
〔執筆者あとがき〕 |
この中編では、『十日間』の七日目が終るまでの流れを追っています。 十日間と言いつつも、宣告を受けてから十日目の朝が終わりということを考えると、期間は実質九日しかありません。 日々の生活の中ではあっと言う間に過ぎてしまう時間であり、多くの人たちにとっては、人生の目標を達成するにも、大切な人たちとの別れを惜しむにも足りないのではないでしょうか。 反面、絶望にあえいでいる時は実際より長く感じるものです。 今回は、そういった無常さと人の心の弱さを前面に出すことを目指しました。 特にコテツのヘタレっぷりは極端ですが、人間である以上はこういう反応もあって然るべきでしょう。 勇敢であることと、死を恐れないことは、また別の問題であるはずですから。 残る後編で、物語はクライマックスを迎えます。 『Material Wars2』のゲーム本編では既に語られた結末ですが、そこに至るまでの経緯、キャラクターの心情など、語る余地はまだまだ残されているはずです。 どうか、この続きもご覧いただけると幸いです。 |
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