New Generations 十日間の螺旋(前編) |
AkiRa(E-No.451PL)作 |
1.出会いと幕開け | 5.摂理と、愛と |
2.楽園への誘い | 6.断ち切られた結末 |
3.夜の少女 | 7.醒めない悪夢の始まり |
4.燻る不安 | |
〔執筆者あとがき〕 |
1.出会いと幕開け 【輝虹暦30年10月16日】 |
――これで、もう何度目の空振りだろうか。 路地の奥から僅かな物音を聞きつけ、勇んで足を踏み入れたのが数分前。 サナルが睨んだ通り、それは確かに犬の鳴き声であったのだが……今、彼の眼前にいるのは、求めていたそれとは違っていた。 「……はあ」 大きく溜息をつくサナルに、痩せた野良犬が警戒の唸りをあげる。 探しているのは、これより一回り小さく、尻尾が豊かで、そしてかなり気弱な犬だ。 縄張りを荒して機嫌を損ねるつもりもなかったので、サナルは大人しく元来た道を戻った。 「どこ行っちゃったんだろ、とら……」 軽い焦燥感とともに、犬の名を口にする。 自分のではなく、仲間の飼い犬とはいえ、数日間も行方不明となると流石に不安が募ってくる。 決して弱くはないが、飛ぶ鳥にすら驚くほど気の小さいとらである。今回も、近くで大きな物音がした拍子に、一目散にどこかへ駆けて行ってしまったのだ。 せめて、飼い主に少しでも似ていれば良かったのだが――それはそれで、別の心配が出てきそうだ。 そんなことを考えた時、通りの向こう側から自分を呼ぶ声があった。 「――サナル! どうだ、見つかったか?」 頭の上で束ねた黒髪を揺らし、小走りに近付いて来る少年。 彼が、とらの本来の飼い主だった。 「コテツ。だめだよ、ぜんっぜんだめ。見つかんない」 首と手を大きく横に振りつつ答えると、少年――コテツは即座に顔を顰めた。 一歩遅れて、表情そのままの悪態が口から飛び出してくる。 「マジかよ……っくそ、どこほっつき歩いてやがる!」 落胆と苛立ちを露わにいきり立つコテツに対し、サナルは成す術も無く立ち尽くしていた。 自分が悪いわけではないと知ってはいても、何故か怒られている気分になってしまう。 多少の自信を持っていた己の探索術がまったく役に立っていないことも、肩身の狭さに拍車をかけた。 「結構珍しい犬だし、すぐ見つかると思ったんだけどね……」 ここ城砦都市センブラでは、とかく荒事が絶えない現状から冒険者や傭兵などが多く、その供として犬を飼う者も少なくはない。 一般的には丈夫な犬種をかけあわせた雑種や、猟犬として優秀なドーベルマンが多数派なのだが、とらはそのどちらでもなかった。 名は忘れてしまったが、別大陸の辺境を起源とした種類であるらしい。 話によると利口で主人に忠実、勇敢とのことだったが――最後の項目は、やはり個体差が激しいところなのだろうか。 ぼんやりと考え事に耽っていると、背後から肩を軽く叩かれた。 「あの――ちょっといいかな?」 「わわっ、すみません!」 通りの中央に立っていた自分が通行の邪魔になったのかと、慌てて端に避ける。 予想に反して、返って来たのはのんびりとした男の声だった。 「ああ、驚かせてごめん。そういうつもりじゃなくて」 「?」 そこで、初めて男の顔を見上げる。 歳の頃は二十代後半から三十前後といったところか。痩身で、身に着けているものから推察しても冒険者や傭兵の類には見えない。 やや線の細い作りの面に、人好きのする笑みを穏やかに浮かべていた。 「君たち、犬を探しているんだよね?」 「あ、はい、そうですけど……」 突然声をかけてきた男に困惑しつつ、サナルが答える。 とても悪人には見えないが、治安の悪いセンブラではそれだけで安心することはできない。 隣に立つコテツも、怪訝そうに眉を顰めたまま黙り込んでいた。 そんな彼らの警戒心を知ってか知らずか、男は屈託なく言葉を続ける。 「もしかして、それって黒毛の“シバ”じゃないかい? このくらいの大きさの」 「――え?」 いつか聞いた犬種と、体毛の色が、特徴と一致する。 男が両手で示した隙間も、犬としてはやや小柄なとらが、ぴったり収まる大きさだった。 驚いて目を見開くサナルに、我が意を得たりと頷く男。 「たぶん、その子ならうちにいると思うよ」 「あ?」 その言葉に、コテツが一瞬にして気色ばむ。 腰に帯びた剣こそ抜いてはいなかったが、いつでもそうできる構えだ。 サナルと同年の少年とはいえ、戦いとなればそこらの大人に引けは取らない。 迫力に圧されたのか、男は慌てたように一歩下がって両手を振った。 「ああ、落ち着いて、怪しい者じゃないから……」 「そういうことを言う奴が、一番怪しいんだよ」 「ちょ、ちょっと、コテツ……!」 不信感丸出しで男に詰め寄るコテツを、慌てて宥めようと動く。 確かに何者かはわからないが、まだ悪い人間と決まったわけでもない。手荒な事は、できる限り避けたかった。 このあたり、コテツととらは本当に両極端だなとも思う。 思わずそんな考えが浮かんだ瞬間、まるで弁明するかのような男の声が響いた。 「僕はシーグル・フォシュマン、ただの動物学者だよ。 嘘だと思うなら、近所の人に聞いてもらえばわかるから、うん」 この状況においても、どことなくのんびりと間の抜けた口調。 それを聞いて毒気を抜かれたのか、コテツもようやく構えを解いた。 射るような警戒の眼差しだけは、相変わらずだったが。 「ええと、その。立ち話もなんだし、一緒に来てもらえるかな? 僕としても、飼い主に引き取ってもらえるのが一番いいからさ」 シーグルと名乗った男の声に、少なくとも嘘は感じられない。 サナルが縋るような思いでコテツを見ると、彼は苛立たしげに息をついて呟いた。 「ち、しゃーねえな……」 ――これが、彼らとシーグルの出会い。 これから起こる“運命の十日間”の、ほんの序章だった。 |
2.楽園への誘い 【輝虹暦30年10月16日】 |
「――まあ、ともあれ君たちに会えて良かったよ。 飼い主を探すと一口に言っても、楽な話じゃないからね」 午後の陽がさす部屋で、紅茶のマグカップを手にシーグルが言う。 彼の視線の先では、三日ぶりに主人と再会したとらが、嬉しそうにコテツにじゃれついていた。 その光景の微笑ましさに、紅茶をすすっていたサナルの表情も思わず綻ぶ。 「そうですよねー。おれたちもあちこち探したけど、 全然見つからなかったし……ね、コテツ」 「……」 サナルは笑ってコテツに声をかけたが、彼はむっつりと口を噤んで黙り込んだままだ。 あれからこの家を訪れ、無事にとらを引き取り、ついでに茶飲み話などに誘われ、ひとまずはシーグルに対する警戒は解けているはずである。 ただ、一方的に疑って突っかかった後ろめたさがあるのだろう。 「ったくよ、手間かけさせやがって……こいつ」 「くぅん」 呟きとともに、怒ったような表情で、とらの頭を乱暴に撫でる。 申し訳なさそうに小さく鳴くとらとの対比が、何だか可笑しい。 床に座すコテツの傍ら、置かれたまま手をつけられていない紅茶のカップが、サナルの目に留まった。 今は、家主であるシーグルを含め、全員が床に腰を下ろしている。 この部屋の椅子といえば、窓際に面した机と対になったものが一つきり。 あとは、分厚い本が並ぶ本棚がいくつかと、一人用の簡素なベッド。目につく家具は、それで全てだった。 研究資料の類だろうか、棚に収まりきらない紙の束が、隅の方で雑然とした山を作っている。 何気なくそれらを眺めていると、やや遠慮がちなシーグルの声が響いた。 「ごめんよ、散らかっていて。一人だと、どうしても掃除を怠けちゃうんだ」 「あ……その、ごめんなさい! 難しそうな本が沢山あるなあって思って……」 慌てて視線を戻し、手を大きく横に振って詫びる。 半ば無意識とはいえ、初めて訪問した家をジロジロ見回すのは失礼な行為に違いない。 恥ずかしさで下を向いてしまったサナルに、シーグルはさして気にした様子もなく口を開いた。 「動物と一口に言っても色々だからね、増えていく一方なんだよ。 西のレイテンシ山脈には、飛竜なんてのもいるって話だしね」 「――え、飛竜? そんなのが住んでるの、すごい!」 驚きに好奇心を刺激され、思わず顔を上げる。 シーグルは笑ってサナルに頷くと、飛竜の特徴や生態に関して説明を始めた。 本に書いてあるような難しい言葉ではなく、わかりやすく、それでいて興味をそそる語り口。 サナルが時折質問を挟んでも、嫌な顔一つせずに答えてくれる。 居心地の悪さは、会話に引き込まれると同時に跡形もなく消えていった。 それからサナルは、シーグルの話を夢中になって聞いた。 動物の話題は身近なものから珍しいものまで事欠かなかったし、研究のために世界を股にかけて旅をしたというくだりは、冒険にも繋がるわくわくした感情をおぼえた。 シーグルが遠く離れた大陸の出身であり、偶然にもサナルとほぼ同郷であると知った時は、随分と驚いたものだ。 コテツは口を挟みこそしなかったものの、しっかり会話には耳を傾けていたらしく、時折相槌のような仕草も見せた。 常に動いていないと気が済まない性分の彼が、これだけの時間大人しく座っていられたのも、或いはシーグルの話術が巧みであることの証明かもしれない。 しばらくそうやって話をしていただろうか。ふと、サナルの胸に小さな疑問が浮かんだ。 「シーグルさんって、どうしてセンブラに住んでいるんですか?」 “赤の国”とも呼ばれるセンブラは、その領土のほとんどが荒野で占められている。 さらに、北の国境では大陸の覇権を目論むサイシック帝國が侵攻を続けており、小競り合いはしょっちゅうだ。 サナルの乏しい知識で考えてすら、とても動物の研究に向いている街とは思えない。 「……その、生意気言ってごめんなさい」 口にしてしまった後、差し出がましい発言だったかと軽く悔やむ。 しかし、シーグルは穏やかな笑みを浮かべたまま、それを崩そうとはしなかった。 「いや、構わないよ。確かに、動物はケーブとかの方が多く見られるだろうからね」 浅知恵かと思われた自分の考えをあっさり肯定され、首を傾げるサナルに、シーグルが言葉を続ける。 「主な理由は二つかな。一つは、僕の奥さんがこの街の人だってこと。 住み慣れた街を離れさせるのは可哀相だし、今は子供もいるから」 「え、奥さんがいるんですか?」 「うん。もっとも、最近は忙しくてあまり家に帰ってないけどね」 シーグルの年齢を考えれば不自然なことではないが、部屋の様子から勝手に独身だと思い込んでいた。 そんなサナルを見透かしたように、彼は「ここは仕事用に借りている家なんだ」と笑う。 「……じゃあ、二つ目は?」 失言を誤魔化すように再び問うと、シーグルは珍しく間をおいて答えた。 「それは内緒……と言いたいところだけれど」 言葉が途切れると同時に、視線がサナルとコテツに向けられる。 シーグルは何かを考えた後、意を決したように口を開いた。 「君たちは、確か冒険者だと言っていたよね」 「え……あ、はい。おれは……まだ、駆け出しですけど」 先ほどの会話の中で自ら明かしたこととはいえ、改めて訊かれるとやや腰が引ける。 国が認定する試験に合格してまだ二ヶ月。堂々と冒険者を名乗るには、実力も経験も不足していた。 自信のなさから声の小さくなったサナルに合わせるように、控え目な口調でシーグルが続ける。 「実はね、このセンブラの近くに、その二つ目の理由があるんだ。 僕としてはそこに行きたいのだけれど、一人だとちょっと危なくてね。 それで――君たちさえ良ければ、それまでの護衛をお願いしたいんだ」 「――え?」 いきなりの依頼に、思わず気の抜けた声を上げてしまう。 コテツを振り返ると、彼もまたシーグルに顔を向けたまま目を丸くしていた。 「あ、勿論きちんと報酬は支払うよ」 固まっている少年たちを見て、シーグルが慌てたようにそう付け加える。 無論、サナルの興味はそんなところにはなかった。 「……あ、いや、そうじゃなくて。 シーグルさん、そこってどんな場所なんですか?」 センブラという土地の不利を帳消しにするほどの何かが、そこに存在するというのだろうか。 危険という話ではあったが、今はそれよりも好奇心の方が先に立つ。 期待の眼差しを向けると、シーグルはにっこりと笑ってこう答えた。 「――言うなれば、“知られざる動物たちの楽園”ってとこかな」 |
3.夜の少女 【輝虹暦30年10月17日】 |
目の前にある道は、ただ果てしなく広がる荒野だった。 センブラを出発して半日、街を離れるにしたがって景色は変化を失っていく。 時折シーグルが方角を確かめ、おおよその現在位置を割り出してくれていたが、それがなければ前に進んでいるという実感が湧かない。 恵みの薄い大地は、その先にあるものを期待させるにはあまりに荒涼としていた。 シーグルを疑うわけではないが、彼の言う“楽園”が本当に存在するものなのか、少し不安になる。 「――この調子なら、明日の午前中には目的地へ着けそうですね」 タイミング良く発せられたその一言に、思わずどきりとして振り向くサナル。 そこでは、地図とコンパスを手にしたシーグルが、プリシラに行程の説明を行っていた。 「うむうむ、道案内はお任せしますからの。 何かあればうちの若いもんが勝手に動いてくれるでの、 大船に乗ったつもりで安心して構えているといいぞぃ」 明るい口調で事も無げに頷くこの老女も、サナルの冒険者仲間の一人である。 もっとも、仲間というより保護者と呼ぶべきかもしれないが。 「頼りにさせていただきますよ。それでは――今夜はここで一泊ですかね」 シーグルの言葉に空を見上げると、いつの間にか陽が傾き始めていた。距離だけでなく、時間の感覚もいささか鈍っていたらしい。 「今日はここで終わり? 歩いて行くのは仕方ないけど、 転送装置が使えないのも不便だよねー」 数歩離れて話を聞いていたアヤが、軽い疲労を滲ませて呟く。 「ま、晴れてるだけマシだろ」 その横では、コテツが疲れた様子も見せず、早々と野営の準備を始めていた。 夜も更けて、月はすでに中天にかかろうとしていた。 獣除けに焚かれた火の番をしつつ、サナルはふと、ここまでの道のりを考える。 シーグルから依頼を持ちかけられたのは、つい昨日の話だ。 冒険となると、残り二人の仲間――プリシラとアヤにも同行してもらうのが手っ取り早い。 そこで、彼らはシーグルを伴って宿へと戻り、彼女らの判断を仰ぐことにした。 ここ数日はとらの捜索に時間を取られていたこともあり、現状で他に仕事の予定はない。 報酬も出るとあれば断る理由はないだろうと思ったのだが、事はそう簡単には運ばなかった。 ほぼ唯一にして最大の問題は、今回の冒険では転送装置を利用できないということだ。 魔法の発達したこの地では、物資や人を離れた場所まで瞬時に移動できる『転送』という技術が存在している。 行き先として指定できるのは予め記憶させた地点のみであるため、万能とは言い難いが、それでも冒険者にとっての利用価値は計り知れない。 例えば、拠点となる街を記憶させた状態で冒険に出たとする。 国から支給される小型の転送装置は、あと一つだけ場所を記憶できるため、その時の現在位置を記憶させておけば、冒険の中断や再開も思いのままだ。 さらに、所有者が冒険の中で生命の危機に晒された場合、強制的に拠点の街まで転送を行う機能もある。 国家公認の冒険者は例外なくこの装置を利用することができるため、厳しい環境にも関わらず彼らの生存率はかなり高い水準を保っていたし、何かとハイリスクな野営も通常は必要がなかった。 しかし、シーグルは冒険者ではなく、一介の学者に過ぎない。 正式の手続きを踏めば一般人であっても装置の貸与を許されるが、その殆どは商業や軍事に携わる者に限られる。 個人的な研究に貴重な技術を割けるほどの余裕はまだこの国になく、従ってシーグルが許可を得られる可能性は低い。 さらに、シーグルが出発を急ぎたいと申し出てきたのもマイナスの要因だった。 ただでさえ転送装置が使えない不便を強いられる上、準備の時間も充分に取れないとあっては、慎重な人間は決断に迷う。 そういった理由から、最初プリシラとアヤは乗り気ではなかったのだが、シーグルにはとらを保護してもらったという恩があり、さらに彼が報酬を多めに出すということで、ようやく承諾してくれたのだ。サナルとしては、大きく歓迎すべき事である。 確かに不便な旅ではあるが、“動物たちの楽園”への興味はそれを補って余りある。 どんな場所なのか想像を巡らせるだけで、見張り番の退屈さもどこかに吹き飛んでしまいそうだった。 思わずにやけてきそうな顔を、焚火の向かい側に座るアヤに見られまいと軽く横へと逸らす。年上の女性と二人で見張りという時点で気恥ずかしいのに、こんな顔を見られたのでは堪らない。 そうやって、少しだけ離れて眠るコテツ達が視界に入った時、異変に気付いた。 毛布に包まり横になっているシーグルの傍ら、一人の少女が立っている。 年齢は、サナルよりちょっと下といったところだろう。透けるような白い肌と、月明かりを仄かに映して輝く銀の髪がやけに印象的だ。 身に着けているのはごく簡素なワンピースのみで、そこから伸びた手足はどこまでも細い。どう見ても、この荒野の真ん中に相応しい存在ではなかった。 サナルが状況の不自然さに呆然としていると、少女はやや腰を屈め、眠るシーグルの顔をそっと覗き込んだ。 その表情はあまりに哀しげで、今にも泣き出しそうに見える。 思わず声をかけようとした矢先、ありえない事実がサナルの目に飛び込んできた。 焚火の炎と、月明かりに照らされた少女。彼女には――影が、なかった。 「な……っ!?」 考えられる可能性は、たった一つしかない。 この世ならざるものでなければ、影が存在しないなどということが起こり得るものか。 思考は一瞬のうちに恐慌をきたし、どっと噴き出した冷や汗が背中を濡らす。 「あ……アヤ、さん……っ!」 いくら大人とはいえ、女性に助けを求めるのは我ながら情けないが、今は他に方法がない。 「――? どうしたの、サナル君」 切迫したサナルの声に、焚火を灯りに本を読んでいたアヤが顔を上げる。 「そ、そこ……お、女の子が……っ!」 混乱で思うように出てこない言葉にやきもきしつつ、震える指で、何とかシーグルの方向を示す。 意思に反して、顔はまったくそちらに向けることができなかった。 間もなく、アヤがサナルの指先を視線で辿る。 サナルは緊張してその様子を眺めていたが、予想に反してアヤの表情に変化は無かった。 「女の子なんて、どこにもいないわよ?」 拍子抜けしたように、首を傾げてサナルを見る。 「え……?」 サナルが慌てて振り返ると、あの少女の姿はもう跡形もなかった。 |
4.燻る不安 【輝虹暦30年10月18日】 |
「――らぁッ!」 林の中、戦いの喧騒に混じってコテツの雄叫びが響いた。 敵は、獰猛な飢えた野犬たちだ。同時に逆の方向から襲いかかる二匹に臆した様子もなく、カウンターで反撃を浴びせていく。 一匹は膝蹴りを腹に叩き込まれ、もう一匹は逆腕に構えた盾で横っ面を打ち据えられて、それぞれ苦鳴とともに地面へと伏した。 「ふ……!」 軽く息を吐き、残る敵を求めて右手の剣を構え直す。 牽制とフェイントの役目に終始していたためか、その白刃に血の曇りは見当たらなかった。 「サナル! ボーっとしてんじゃねぇ!」 コテツが突如こちらを向き、叱咤を飛ばす。 「え?」 どうやら、いつの間にかコテツの戦いに目を奪われていたらしい。 ふと我に返ると、唸り声とともに飛びかかる野犬の姿が眼前にあった。 「う……わわっ!?」 喉笛を目がけた牙の一撃を大きく身体を捻ってかわし、慌てて短剣を構える。 「馬鹿野郎、だから言ったろがっ!」 続く野犬の攻撃は、瞬く間に距離を詰めたコテツによって阻まれていた。 程なくして、野犬の群れは完全に駆逐された。 戦意を失って逃げていく最後の一匹を見送り、サナルの全身からどっと力が抜ける。 実戦の経験はそれなりに積んできたが、この緊張感にはなかなか慣れることができない。 「みんな、怪我はないかの? まったく、年寄りには応えるわい」 プリシラが、自らの腰を軽くさすりながら全員を見回す。 言葉や仕草とは裏腹に、にこやかに微笑むその表情は疲れを感じさせない。 老齢とは言え冒険者、それも魔導士である。ついさっきも、彼女は風の魔法で多くの野犬たちを撃退していた。 「――うん、このくらいなら大丈夫そうだよね」 コテツの傷の具合を診ていたアヤが、軽く頷いて愛用の医療道具を手に取る。 彼女には医術だけでなく治癒の魔法の心得もあるが、どうやらそれを使うには及ばないと判断したらしい。 「サナル君も、応急処置するからこっちに来て」 淀みなく手を動かしつつ、アヤがサナルに声をかける。彼女の視線は、先ほど負った腕の擦り傷に注がれていた。 前線に立つ以上、程度の差はあれど怪我とは無縁でいられない。 コテツもサナルも、今回のそれは随分と軽い方だったと言うべきだろう。 「シーグルさんや、おぬしは大丈夫かの?」 少年たちが手当てを受ける様子を眺めていたプリシラが、ふとシーグルを振り返る。 「あ……いえ。僕は、後ろで見ていただけですから」 遠慮がちにかぶりを振る彼の足元で、とらが「くぅん」と一声鳴いた。 今回の仕事の性質上、依頼人の安全の確保は第一に優先すべきである。 そのため戦いにおいては彼を最も安全な場所へと配置し、さらにとらを護衛に据えた。 臆病な犬ではあるが、だからこそ身を守る術にはそれなりに長けている。 それを頼みにするつもりは毛頭なく、あくまで万全を期してのことだ。 事実、先の戦いでは野犬の群れは全てコテツたちに食い止められ、一匹としてシーグルまで辿り着いたものはいない。 にも関わらずプリシラがシーグルの身を案じるのは、ある理由からだった。 「じゃが、今朝のこともあるからのぅ。 おぬしに万が一のことがあっては、ワシらが困ってしまうからの」 昨夜、サナルたちがプリシラとコテツに見張りの番を引き継いだ後。 明け方も近付いた頃に、シーグルはひどくうなされたのだそうだ。 苦しげな様子を見かねて彼を起こしたところ、蒼白な顔で汗をびっしり浮かべ、しばらくは口も利けぬほどだったらしい。 その話を聞いた時、サナルの脳裏に浮かんだのはあの少女の姿であったが、何故かそれを言い出すことはできなかった。 あれは果たして現実であったのか、自分でも確信の持てない出来事であったし、できれば忘れたい光景でもあったからだ。 如何に幼い少女であるとはいえ、幽霊だとしたら恐い。 「あのアザですけど、帰ったら一応お医者さんに診てもらった方がいいですよ。 おそらく問題はないと思いますけど」 プリシラの言葉を受けて、アヤも治療の手を一瞬止めて口を開く。 今朝になって、シーグルは念の為に彼女の診察を受けていたのだが、その際、彼の右前腕部に大きな黒いアザが見つかっていた。 それは打撲などとは明らかに異なり、漆黒と言っても良いほどの色で、サナルは一目見た瞬間に不気味な印象をおぼえたものだ。 しかし、他に目立った異状はなく、またシーグルも再び目覚めた後はすっかり元気を取り戻していたため、アヤはとりあえず旅に支障はないと判断した。 事実、朝に野営地を出発してもう昼近くになるが、シーグルの体調に異変が起こる兆しはない。 「ありがとう。……本当に、大丈夫ですから」 笑って答えるシーグルの顔色は健康そのものだったが、それでもサナルの心は晴れなかった。 昨夜のことといい、何か悪い予感がする。 やがてアヤが処置を終えると、シーグルは少年たちに軽く労いの声をかけ、次いで気を取り直すように言った。 「さて、目的地はもうすぐそこです。頑張って行きましょうか」 僅かな胸騒ぎが、サナルの中で燻るようにいつまでも引っかかっていた。 |
5.摂理と、愛と 【輝虹暦30年10月18日】 |
楽園。この言葉に、人々が抱くイメージは様々だろう。 全ての苦痛が取り払われた、喜びのみが溢れる場所。 暖かな光の中で色とりどりの花が咲き乱れ、小鳥たちが優しくさえずる場所。 あるいは、既に亡くした大切な者たちと再会できる場所であるかもしれない。 しかし、今。サナルの眼前にあるのは、そのいずれでもなかった。 豊かに流れる小川のせせらぎは静寂の中にも力強く、陽の光に照らされた下草は目に鮮やかなほど青い。 木々は天に上り詰めようとするかの如く真っ直ぐ伸び、駆け回る獣たちは荒々しい躍動感に溢れている。 弱きものは強きものの糧となり、その屍をもって草花を育む、そういう場所。 それでも――確かにここは楽園なのだ。この地に住まう、全てのものたちにとって。 人間の手が触れることのない、純粋な自然の姿。 それを前に、サナルはひたすら驚嘆の声を漏らすばかりだった。 「う……わぁ」 まばらに林の広がる荒地と、赤土にまみれて起伏の激しい岩場と。 そこを抜けただけで、どうしてこうも光景が一変するというのだろう。 そんな疑問に答えるかの如く、背後からシーグルが口を開く。 「ここは地形の関係で周囲とはほぼ隔絶されていましてね。 国境で戦争が続いていることもあって、人はほとんど近寄らないんですよ。 それでいて、水場や日照にも恵まれていますし。 ある意味、動物たちには最高の環境に近いと言えるでしょう……」 確かに、荒野が国土の大半を占めるセンブラでは、ここまで緑に恵まれた場所はそうそう他に例を見ないだろう。 一つ一つはささやかな、幸運な偶然の積み重ねが、長い時間をかけて一つの楽園を造り上げたのだ。 「戦争が結果としてここを守っているというのも、皮肉な話ですがね」 静かなシーグルの声が、ずしりと重みを持って胸に響く。 戦争に限らず、動物の住処を危機に追いやるのはいつも人間たちの仕業だ。 先ほどの凶暴な野犬たちも、自らの縄張りを守るために戦ったに過ぎない。 サナルは身を守るために武器を振るうが、それは彼らも同じことなのだ。 そう考えると、急に自分が身勝手な生き物に思えてくる。 「――でも、こんな場所よく見つけられましたね」 「最初に来た時は、まったくの偶然だったんですよ。道に迷ってしまって……」 俯き、アヤとシーグルの会話をしばらく聞き流していたサナルだったが、そんな折、傍らのコテツが小さく声を漏らした。 「――ん?」 「どしたの、コテツ?」 視線を上げると、僅かに緊張したコテツの横顔があった。 無言で鼻をひくつかせた後、眉を顰めて呟く。 「血の臭いがしやがる」 「……血!? まさか……」 手負いの獣が近くにいて、自分たちを狙っているのだろうか。 サナルは慌てて周囲を見渡したが、少なくとも目につく場所にそのような姿は見当たらない。 ホッと安堵したのも束の間、今度は悲鳴にも似た咆哮が耳に届いた。 「! コテツ、今の声!」 「――あっちか」 コテツと顔を見合わせ、その方向へと向かって走り出す。 よく耳を澄ませると、今度は複数の唸り声が聞き取れた。 どうやら、血臭の原因は野犬同士の戦いであるらしい。 「どこに行くんじゃ、二人とも。あまり離れては危険じゃぞ」 慌てて制止するプリシラの声にも構わず、少年たちは真っ直ぐに駆けていった。 木陰を抜け、そこへと辿り着いた時。 開けた視界に飛び込んできたのは、凄惨な戦いの痕だった。 「……勝負は、ついたみたいだな」 「うわ……」 足の形にいくつも抉られた地面、そこに飛び散った夥しい量の血。 その中心で、喉笛を噛み砕かれ、横倒しになった一匹の野犬が、目を大きく見開いたまま息絶えていた。 最期まで敵に一矢報いようとしたのか、前脚は精一杯に伸ばされた状態で、指先から伝う鮮血が地面に染みを作っている。 無残な亡骸は、敗れれば滅ぶしかない野生の厳しさを冷徹に表していた。 「いきなり走り出すから何かと思ったら…… 自然の法則と言えばそうだけど、ちょっとねー」 コテツと二人、しばらくその場に立ち尽くしていただろうか。 背後からの声に振り向くと、アヤが立っていた。 全員で自分たちの後を追ってきたのか、プリシラとシーグルの姿もそこにある。 皆の視線は、一様にあの野犬へと注がれていた。 「しかし、親を失った仔は不憫じゃのぅ」 「……え?」 痛ましげに呟くプリシラに驚き、再び顔の向きを戻す。 見ると、いつの間にか現れた仔犬が数匹、野犬の死体に寄り添うように座っていた。 「あ……」 プリシラの言う通り、死んだ犬は彼らの親であったのだろう。 もう動くことのない身体に縋り、代わる代わる毛皮を舐め、甘えるかの如く鳴き声を上げ続けている。 その光景はどこか、サナルに母親と死別した時の自分と妹を思い出させた。 ――あの仔犬たちは、これからどうなってしまうのだろう? 「あの……」 振り返り、不吉な懸念とともに湧き上がる疑問の答えをシーグルに尋ねようと口を開く。 異変に気がついたのは、その直後。 「――シーグル、さん……?」 最初は、シーグルの瞳から流れる雫を、訳もわからず呆然と眺めていた。 泣いているのだと悟ったのは、少し遅れてからだ。 彼の心を突き動かしたのは、やはりあの野犬たちなのだろうか。 視線は野犬の親子に向けられたまま微動だにせず、声一つ上げずに。 これほどまで静かな涙があるものかと、不安をおぼえるほどの涕泣。 誰もが目を奪われ、掛ける言葉もない沈黙の中、シーグルはひたすらに泣き続けていた。 |
6.断ち切られた結末 【輝虹暦30年10月24日】 |
雲一つない、よく晴れた空の下。 清々しく冷えた空気に多少の肌寒さを感じながら、サナルはセンブラの街を歩いていた。 澄んだ蒼穹の美しさに思わず見とれつつ、数歩前をゆくコテツの背中に語りかける。 「今日もいい天気だねー……」 「あんま上ばっか見てっと、転ぶぞ」 振り返りもせず、素っ気無く言い放つコテツ。 「なっ、転ばないよ! ちゃんと前だって見てるもんね!」 まるで子供に対するような台詞に反発して、ついつい声を張り上げてしまう。 身体の丈も厚みも結構な差があるが、コテツはサナルと同年の十四歳だ。 いかに彼が剣技と体術に優れ、自分より冒険者として経験を積んでいるとしても、できる限り立場は対等でありたい。 手のかかる弟のように扱われるなど、まっぴらだった。 そうやってコテツを意識し、張り合ってムキになる自分というのも、それはそれで面白くないのだが。 不貞腐れかけた心を誤魔化すように、努めて平静を装いつつ話題を変える。 「――そういえばさ、どうしてシーグルさんはあんな事言ったんだろうね」 シーグルの護衛として“動物たちの楽園”に赴き、その任務を完遂してから、すでに四日が過ぎていた。 奇妙な申し出があったのは、センブラに戻り、報酬を受け取った直後のこと。 十月二十四日――すなわち本日の午後、自分に会いに家まで来て欲しいというのが、その内容である。 サナルとしては、言われずとも再び動物の話などを聞きに行こうなどと考えていたのだが、わざわざ日時を指定してというのが気になった。 「俺が知るかよ。大体からして、あん時から様子がおかしすぎらぁ」 相変わらず前を向いたまま、コテツが答える。 確かに、シーグルには不可解な点が多すぎた。 特に予定が詰まっている様子もなかったのに、四人分の報酬を上乗せしてまで出発を急いだこと。 それにも関わらず、あの野犬の親子を目の当たりにした途端、掌を返すように引き上げたこと。 尋常でないうなされ方といい、右腕の黒いアザといい、いちいち気にかかる。 極めつけが、この約束だ。 今更シーグルの人格を疑うわけではないが、深く考えずとも何か裏がありそうだというのは予想できる。 「ま、行ってみればわかんだろ」 特に緊張した様子もなく、事も無げに言い切るコテツの後を追いつつ、サナルは、あの夜に見た少女の姿を思い浮かべていた。 「――どなた?」 軽いノックの後、扉越しに聞こえてきたのは、予想に反して若い女性の声だった。 「え……あ、あの。今日、シーグルさんと会う約束を……」 どぎまぎしつつ、途切れ途切れに言葉を返す。 居心地の悪い沈黙の後、ようやく扉が開かれた。 姿を現したのは、二十代半ばくらいの、ほっそりとした女性。 身体の具合でも悪いのか、顔色は病的なまでに白い。 彼女はサナルとコテツをやや虚ろに眺めた後、おもむろに一つの包みを二人の方へと差し出した。 大人の両手に乗るくらいの大きさで、その上には手紙と思しき封筒が添えられている。 「こちらは、あなたたちで間違いないかしら?」 封筒には、サナルたちパーティ全員の名前が並んで記されていた。 「え? あ……はい」 宛先が自分たちであることを再度確かめつつ、包みを受け取る。 「……あなた方に渡してほしいって、言われたものだから」 どこか疲れた様子で、安堵するように息をつく女性。 あの包みがシーグルから預かったものだとすれば、彼はいま不在ということだろうか。 「その、間違ってたらごめんなさい。シーグルさんの……奥さん、ですよね」 「――ええ。わたしはアナベラ……シーグルの家内よ」 シーグルに妻子がいるという話は、前に一度聞いている。 だから、仕事場に彼の妻がいたとしても不思議な話ではないのだが……何故か、不吉な予感が頭から離れない。 「それで、シーグルさんは……?」 堪えきれず、とうとう本題を切り出す。 直後、アナベラの顔が深い悲しみに染まった。 「あの人は――主人は亡くなりました」 「な……!」 数瞬の絶句。頭は真っ白になり、何も考えられない。 少し遅れて、やって来る疑問符の渦。 「い……いつ? どうして……!?」 やっとの思いで口を開き、アナベラに問おうとしたその時。 彼女の背後に駆け寄る、小さな影が見えた。 「ねえ……まま?」 二、三歳くらいの男の子で、面影がどことなくシーグルに似ている。おそらくは、彼の息子だろう。 「……ウルフ」 アナベラが呼びかけると、男の子――ウルフはきょとんとして母親を見上げた。 「ぱぱ……どうしてねてるの?」 その言葉に、アナベラが僅かに眉を顰める。 「パパはね、もう起きないのよ」 「ぱぱ、あそべないの?」 しゃがんで視線を合わせつつ、息子へと静かに語りかけるアナベラ。 それでもなお、ウルフは首を傾げたままだ。小さな身体を、母の震える両腕がそっと包んだ。 「そう。もう、遊べないの」 「どうして……?」 「ウルフ……ね、いい子だから」 「ねえ、ぱぱは……?」 母子のやり取りに、やがて溢れ出した嗚咽が混じる。 夫を亡くした妻と、父を亡くした子。 頼るべき腕を永遠に失ったその姿は、あまりに痛ましく、哀しい。 「――何て、こったよ……畜生……!」 押し殺すようなコテツの呟きが、立ち尽くすサナルの耳に残った。 |
7.醒めない悪夢の始まり 【輝虹暦30年10月25日】 |
色々なことがありすぎて、なかなか寝付けない夜だった。 すでに日付の変わる時刻を過ぎているというのに、まるで眠気というものを感じない。 いつもは早々に消してしまう灯りも、今夜はまだ部屋を明るく照らし続けていた。 「おれ……もうわけがわかんないよ」 横になる気すらおきず、ベッドに腰掛けた姿勢で呟きを漏らす。 「誰だってわかんねぇよ、こんなもん」 二人部屋の向かい側、もう一つのベッドで仰向けに寝ていたコテツが、素っ気無く答えた。 彼もまた眠れないのか、目ははっきりと開かれたまま天井へと向けられている。 おそらく、考えていることはサナルと同じだろう。 日中、あれから二人は、アナベラが落ち着くのを待って、もう少し詳しい事情を訊くことにした。 夫を失ったばかりの女性に、その傷を抉るような真似をするのは躊躇われたが、このままシーグルの死を放っておくのも嫌だったのだ。 アナベラの話では、シーグルは数日前、家に『二十四日の朝に、仕事場まで来て欲しい』という内容の手紙を送っていたらしい。 今まで、研究に集中できなくなるからと妻子の訪問を拒んでいた彼が、どうしてこんな事を言い出したのか。不思議に思わないではなかったが、もともと気まぐれな夫ではあったし、きっと何か用があるのだろうと、その時は深く考えなかった。 そして、約束の日。息子を伴って仕事場を訪ねた彼女は、そこで夫の死を知ることとなる。 ノックしても反応がなく、鍵すらかかっていない扉。 その向こうで、シーグルはベッドの中、眠るように息絶えていたのだという。肌に、微かな温もりすら残して。 サナルたちもまた、シーグルの遺体と対面したが、彼の表情に苦痛の名残はなかった。 眠りの中で、そのまま心臓と呼吸だけ止めてしまったような、あまりに静かな死。目の当たりにしてすら、どこか現実感が薄く思えた。 こんな形で唐突に家族を奪われたアナベラとウルフの哀傷を思い、改めて胸が締め付けられたものだ。 そこまで回想し、何度目かの溜息をつくサナル。 のろのろとサイドテーブルに手を伸ばし、すでに封の切られたシーグルの手紙を手に取る。 真っ白な便箋には、短くこう書かれていた。 ――冒険者の皆様 このような事態となり、非常に申し訳なく思います。 もう一つの包みは、もしあなた方に良くないことが起こった場合に開いてください。 僕は身勝手な人間です。その時は、どうか恨んでいただいて構いません。 いくら言葉を尽くしても許されることではありませんが、 あなた方があの包みを必要とすることがないよう、心から祈っております。 輝虹暦30年10月23日 シーグル・フォシュマン シーグルの言う“もう一つの包み”は今、サイドテーブルに手付かずのまま置かれている。 彼は家族に宛てた手紙の中で、サナルたちにこれらを渡すよう、妻に頼んでいた。 「……シーグルさん、こうなること知ってたのかな」 既に飽きるほど読み返した手紙を眺めつつ、再び考えを巡らせる。 “このような事態”とは、すなわちシーグル本人の死を示しているのだろう。 シーグルの仕事部屋は、前に訪れた時とは比べ物にならないくらい整然と片付けられていた。 あの手紙の内容といい、ぴたりと日を合わせた約束といい、突然の死にしては準備が周到すぎる。 「そーだとしても、何考えてんだかさっぱりわかんねぇけどな」 コテツの言う通り、謎は深まるばかりだった。 シーグルが死期を悟っていたとして、どうして自分たちにあんな手紙を残したのか。 彼はどうして自らの死期を知りえたのか。そもそも、何によって命を絶たれたのか。 そして。 「“良くないこと”って、何だろう」 シーグルの右前腕にあった漆黒のアザ。 やはり、あれは悪い伝染病の兆候で、彼はそれによって死を迎えたのだろうか。 宿に戻ってプリシラとアヤに事情を話した際、一度は否定された可能性ではある。 しかし、彼女らですら知らないような未知の病が存在し、静かに広がりつつあるとしたら? 「まさか、おれたち……」 自分自身の考えに身震いがしかけた時、苛立たしげなコテツの声が飛び込んできた。 「うるせぇ、俺が知るか! いいからとっとと寝ちまえ!」 「……うん」 確かに、今ここで考えていても仕方がないことである。 パーティの知恵者である、プリシラやアヤをもってしても真相の糸口すら掴めなかったのだ。自分がそれを解明できるとは、最初から思っていない。 すっかり疲れてしまった頭を引きずるように、のろのろと部屋の灯りを消し、ベッドに潜り込む。 どうか何事もないよう祈りながら、サナルはようやく眠りについた。 コテツが目を覚ましたのは、それから少し時間が過ぎてからだった。 まだ明け方まで大分間があるらしく、窓のカーテンは暗く閉ざされたままだ。 普段から寝つきは良い方で、非常時でもなければ夜中に起きるなど珍しい。 昼間の出来事が、思った以上に応えていたのだろうか。 確かに衝撃的ではあったが、それだけで変調をきたすというのも随分と情けない話だ。 「ち……何だってんだ、本当に……」 悪態をつきつつ、再び眠ろうと寝返りをうったその時。 たった今背中を向けたばかりの方向から、幼い声が聞こえてきた。 ――かわいそう。 反射的に振り返ると、つい先ほどまで何もなかったはずの場所に、少女が立っている。 透けるような白い肌と銀髪が、灯りもない部屋の中、やけに冴えて見えた。 コテツが顔を向けたのを認めて、少女は再び口を開く。 ――お兄ちゃん、かわいそう。 『かわいそう』? 俺がか? 一体何をもって可哀想とするのかは知らないが、そんな軽々しく同情などされてたまるか。 状況の不自然さも忘れ、思わず反論しようとした時だった。 ――死んじゃうの。 「……え?」 唐突すぎて、何を言われたのか一瞬理解できなかった。 死んじゃう。死ぬ。――誰が? 混乱する思考の中、少女はその動揺を透かし見るようにコテツを眺めていたが、しばらくして再び口を開いた。 ――もうすぐ死んじゃうのよ、お兄ちゃん。 今度こそ、鮮明に言葉の意味が広がっていく。 胸の中では懐疑と不信、疑問が激しく渦を巻いていたが、それでも少女の宣告には逆らいがたい重みがあった。 「俺が……死ぬ?」 ざわざわとした、真っ暗な闇に捉われるような錯覚。 底なしに湧いてくるその感情が恐怖だと悟るまで、少し時間がかかった。 無性に喉が渇き、代わりに冷や汗が身体の表面を伝う。 そんなコテツを見て、少女は愁えるようにゆっくり目を伏せた。 ――ごめんね。 哀しげに紡がれた、静かな囁き。 運命の十日間――醒めない悪夢は、今始まったばかりだった。 |
〔執筆者あとがき〕 |
このエピソードは、『Material Wars』第3期と、『Material Wars2』のちょうど間に位置しています。 プロットだけはかなり前に仕上がっており、ゲーム本編でもいくつかその内容を匂わせてるのですが、多忙を理由に執筆が延び延びになってしまいました。 今回は特別編ということで、物語全体の構成もかなり普段と異なっています。 もともとTRPG用のシナリオとして考えたものを小説に焼き直したため、世界観のすり合わせ等にかなり苦心しました。 中には公式の設定に反する箇所もあるかもしれませんが、そこはひとえに筆者たる私の力不足ということで、どうか広い心でご覧いただけると幸いです。 ちなみに、この続きは『後編』ではなく『中編』で、ここからがいよいよ本題です。 ニュージェネの小説としては最も長いものとなりますが、最後までお付き合いいただけると嬉しく思います。 |
![]() |