New Generations 十日間の螺旋(後編) |
AkiRa(E-No.451PL)作 |
1.絶望と精算 |
2.父と子の絆 |
3.十字架か、死か? |
4.切っ先は鋭く、痛みはどこまでも深く |
5.二つの覚悟 |
【エピローグ】 ―その時の二人― |
〔執筆者あとがき〕 |
1.絶望と精算 【輝虹暦30年11月1日 23時】 |
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もはや、ここまでなのか。 自室に戻り、ベッドに横たわるサナルの胸には、耐え難い焦燥があった。 11月1日、夜。コテツが“死神”に憑かれてから、丸八日が過ぎようとしている。 十日目となる11月3日、その夜明けまでに手を打たなければ、コテツは“死神”に生命を喰われて死ぬ。 アヤたちの懸命の調査の甲斐なく、今日も有効な情報は得られなかった。 残された時間は、たった一日――“九日目”の明日だけだ。 どんなに楽観的な思考を試みようとも、その一日で解決策が見つかるなどとは、到底思えない。 ――諦めちゃだめだ。 サナルは、自分自身に対して、何度そう言い聞かせてきたことだろう。 諦めたら、万に一つの希望が消えてしまう。 それはすなわち、コテツの命を繋ぐ綱が切れるということだ。友達を失うということだ。 でも、諦めなかったところで、それでコテツは救われるのだろうか? 『万に一つ』という言葉に縋り、起こりもしない奇跡に期待しているのではないか? あがこうが、あがくまいが、コテツは死ぬ。既に、そう定められているのではないだろうか? 際限なく押し寄せる暗い疑念の渦から逃れるように、頭から毛布を被る。 疲れきっているはずなのに、目が冴えてしまって眠れない。眠るのが怖い。 眠ってしまえば。また、何も出来ない明日を迎えてしまえば。今度こそ、自分は諦めてしまうかもしれない。 追い詰められた気分のまま、サナルは自らのベッドの中で縮こまっていた。 沈黙と闇が支配する、宿の二人部屋。 対面の壁際に一つずつベッドが据えられ、間を二つのサイドテーブルが隔てている。 その、サナルの反対側に位置するベッドで、人の起き上がる気配があった。 足音を殺し、部屋をそっと出て行く。まったく寝付けない今の状況でなければ、気付くのは難しかっただろう。 むろん、それはコテツに他ならない。 サナルは毛布を払いのけて上体を起こすと、物音を立てないように注意しながら彼の後を追った。 灯りもなく、他に人影もない、一階の廊下の突き当たり。 そこで、コテツは一人、仄かに光る球体と向かい合っていた。 “伝言球”と呼ばれるそれは、離れた場所にいる人間に声を届けることができる装置だ。 国家公認の冒険者には例外なく、身分証明のための冒険者証が支給されるが、それは伝言球の送信に用いる個別の宛先であり、メッセージの受信を知らせる装置でもある。 誰かから伝言があれば、光が明滅して受信を知らせ、受け取った者は、伝言球に冒険者証を接続することで、送り主の声をそのまま聞くことができる。冒険者同士の相互連絡には、今や欠かせない技術だ。 だが、しかし、コテツは一体誰に伝言を送るつもりなのだろう。 サナルは彼の背中を眺めながら少し考えたが、心当たりはすぐには出てこない。 その時、コテツが不意に背後を振り返った。 身を隠すことを忘れていたサナルは、もろに視線を合わせてしまう。 怒号を予想して一瞬足が竦んだが、コテツはサナルを見つめたまま、怒った様子も見せず、やがてゆっくりと口を開いた。 「――前にさ、泣かしちまった奴がいるんだ」 「え?」 寄る辺のない子供のような、不安げな表情と口調。 思わず聞き返すと、彼は小さく溜息を吐き、力なく言葉を続けた。 「女の子でさ。ちょっとした事でカッとなって、傷つけちまった。 いつか謝んなきゃって思ってたけど、それもできなくて。だから……」 だから。死ぬ前にせめて、一言だけでも。 意図を悟り、声と顔色を失うサナルに、コテツは自嘲の篭った失笑を漏らした。 「卑怯だよな。もう最後だから、許してもらおうだなんて」 「……」 「でもよ。ここまで来て、何て謝っていいかがわかんねぇんだ。 何をどう言っても、白々しくなっちまう気がして。 終いには、あいつを巻き込まないよう、黙っとけって思う俺がいる。 どっちに転んでも、それはただの逃げなんじゃねえかって……」 “死神”に憑かれた者が、死に至るまでに接触した生物。次の“餌”は、その中から選ばれる。『接触』の定義が、直接顔を合わせることにあるのか、あるいは声のみでも成立するものなのか、現状で判断する術はない。 コテツが迷うのも無理からぬことだと、サナルには思えた。 「コテツ……」 たとえ気休めに過ぎなくとも、コテツを励ましてやらねば。そう思い、そっと口を開く。 しかし、出てきたのは、考えていたのとまったく別の言葉だった。 「――お前さ、家に帰れよ」 |
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2.父と子の絆 【輝虹暦30年11月2日 0時】 |
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――家に帰れ。 その言葉は、あまりにも自然に口をついて出た。 口にしたサナル本人ですら、脈絡のないように思える内容であるにも関わらず。 対するコテツは一瞬だけ虚を突かれたような表情を見せたが、すぐに眉根を寄せ、短く呻くように言った。 「……馬鹿言うな」 状況を考えれば、コテツの返答はごく当然のことだろう。 だが、ここに来て引き返すつもりなどない。 サナルは、彼の話を聞くうちに痛感せざるを得なかったのだ。 コテツが、どこまでも一人であることを。 死の恐怖に苦しむのも、思い残したことに対して迷うのも、たった一人。 そして、そのまま死んでいく。家族にすら、見捨てられて。 コテツに会い、もし自分が“死神”に選ばれれば、妻と娘にまで累が及ぶ。 だから、会うわけにはいかない。 これが、息子が死に瀕している事実を知らされた父親の反応だった。 プリシラからその話を聞かされた時、サナルは激しく、やりきれない怒りをおぼえた。 家族を守るために、家族の一員である我が子を見殺しにする。そんな理屈があるものか。 続く言葉は、自然と強い口調となった。 「いいから、帰れよ」 「……イヤだ」 「何でだよ。家族だったら、遠慮なんて要らないじゃんか」 「……何でもクソもあるか。帰らねえったら、帰らねえ」 「このわからず屋!」 頑なに首を横に振り続けるコテツに、サナルの理性が弾けた。 どうして。どうして。 この期に及んで、まだ家族を庇おうとするのか。 それが母親や妹だけであればいい。しかし、それにあの父親が含まれているとなれば。 あんな薄情な父親など、今さら義理立てする必要もないのに! 「そうやって気を遣ってるつもりかもしれないけど、 家族って、そんな薄っぺらいもんじゃないだろ!? こうなったら言っちゃうけどさ、お前の父さんは……!」 ――お前を、あっさり見捨てたんだ。 激情に任せて、危うくそう言いかけた時、コテツが手を上げてそれを制した。 「それ以上は、言うな」 意外なほど、落ち着きのある声。 念を押すように、もう一度コテツが口を開く。 「言わなくても、わかる」 その言葉に、サナルもようやく我に返った。 感情に任せて、決して言ってはならないことを口にしかけたのだ。 「……ごめん」 気まずさに、思わず下を向いてしまう。 そこに、再びコテツの声が重なった。 「違うんだ」 「……?」 「巻き込むのが、怖いんじゃない。合わせる顔がねえんだ」 サナルが顔を上げると、そこには苦渋の表情を浮かべるコテツの姿。 噛み締めた奥歯の隙間から、彼の偽らざる本音が漏れた。 「親父は強い。剣も、格闘も、全部、俺は親父から教わった。 俺にとって、親父は最後に越えなきゃいけねえ壁なんだ。 でも……まだ、一度も、勝てたためしがねぇ……」 いつの間にか、彼の拳は固く握り締められている。 それは、言葉とともに小刻みに震えた。 「親父は、俺くらいの歳に冒険者になって、そっからてめぇの力で生きてきた。 そんな親父にだ。今の俺が、どの面下げて会いに行ける? 戦うこともできずに! ただ、死ぬのを座って待ってるだけの俺が!」 意地と呼ぶには、あまりに愚かで、悲しすぎるかもしれない。 それでも、コテツは、たった一つ残されたこの思いを柱に、自らを支えているのだ。 「コテツ……」 「心配、すんなよ」 再び声をかけた時、コテツの目は、僅かながらいつもの力を取り戻していた。 「てめぇの生き死にくらい、てめぇで責任取ってやるってんだ」 続いて、喉の奥で何事か呟く。その一部が、辛うじてサナルの耳に届いた。 「……んな事ぁ、死んでも御免なんだよ……」 そんなコテツを眺めて、サナルは思う。 これは、息子と父を結ぶ絆の、どこまでも不器用な一つの形なのだろうかと。 サナルの脳裏に自らの父親の背中が一瞬浮かび、そして消えていった。 |
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3.十字架か、死か? 【輝虹暦30年11月2日 20時】 |
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最後の一日は、当たり前のように過ぎていこうとしていた。 そう簡単に、奇跡など起こるはずはない。この日の調査も、昨日と同じく空振りに終った。 いつもの、宿の食堂。テーブルの隣と、その向かい側では、アヤとプリシラが難しい顔で話し込んでいたが、先行きはどうにも暗そうである。 彼女らの話を半ば素通しにしながら、サナルはまったく別のことを考えていた。 昨夜の一件で、サナルもとうとう腹を括ったのだ。 コテツが自らの意志で、間近に迫った死へと向かい合うなら。 “最期”は、決して一人にさせたりはしない。 今日は、コテツと一緒にいよう。きっと、彼も眠れはしないだろう。 その時間を、二人で語り明かすのだ。 断じて認めたくはないが、現実的に、もう出来ることは残されていない。 ならばせめて、この目で見届けよう。コテツが斃れる、その瞬間まで。 たとえ、どんなに辛くとも――サナルは、今やそう思っていた。 「――サナル君? 聞いてる?」 「え?」 自分の思考に沈んでいたところを不意に引き戻され、軽く気の抜けた声を上げる。 アヤが、怪訝な様子で自分の顔を覗き込んでいた。 「大丈夫? 何だか疲れてるみたいだけど」 「だ、大丈夫だよっ。だってほら、アヤさんやおばあちゃんのがずっと大変だったんだし」 咄嗟に誤魔化したものの、心の中では罪悪感を禁じえない。 彼女らが真剣に話し合っていた横で、サナルはただ一人、参加しようともしていなかったのだ。 思わず下を向いてしまうサナルをよそに、プリシラが口を開く。 「それでは、行くとしようかの」 言うなり、彼女はアヤを伴って席を立ってしまった。 「あ? え……?」 取り残されたサナルはすっかり慌てながら、食堂を出ようとする二人を小走りになって追う。 どうやら、向かった先はコテツとサナルの部屋であったらしい。 プリシラは扉の前に立つと、優しいノックとともに声をかけた。 「コテツや、ワシらじゃ。入るよ」 二人部屋は、四人詰め込んで既に満員に近かった。 アヤとプリシラがサナルの、残る二人がコテツのベッドにそれぞれ並んで腰掛け、向かい合う。 人数分の椅子がないので、話し合うにはこれが一番都合が良いのだ。 コテツの飼い犬である“とら”は、主人の足元に寄り添うように、尻尾を丸めて座っていた。 張り詰めた空気が場を支配する中、アヤが普段より硬い口調で切り出す。 「あのね、コテツ君。落ち着いて、よく聞いてね」 「……ああ」 「例の女の子だけど、彼女を今、ここに呼ぶことはできる?」 「んな事訊いて、どうすんだよ」 “例の女の子”とは、サナルが何度も見てきた、あの銀髪の少女のことだろう。 だが、アヤの言葉には、何故か不吉な響きが含まれているように思えた。 僅かに片方の眉を寄せ、ぶっきらぼうに問い返すコテツに、アヤは彼女にしては珍しく、重く低い声で続ける。 「……もしかしたら、“死神”を祓うことができるかもしれない」 「え? えええ!?」 その言葉に驚いたのは、コテツよりむしろサナルの方だった。 「ど、どうやって?」 目を見開き、瞬きを繰り返すサナルに軽く頷いた後、アヤはコテツに向けて説明を始める。 「“死神”がどういう存在かはわからないけれど、 彼女を拠り代にしていることはたぶん間違いないと思う。 じゃなかったら、きっとこの世界に居続けることはできないはずだから」 「……それで?」 「だから、彼女がいなくなれば、“死神”は元の世界に還るかもしれない」 「……」 「サナル君の話では、あの子はきちんと実体を持っていた。 もちろん、本当の肉体ではありえないけれど。 ……普通の武器でも、たぶん、通用はすると思う」 「――ちょっと待て」 そこまでアヤが言い終えた時、コテツが突如として立ち上がった。 「それって――つまり。俺に、あいつを殺せってのか……?」 コテツの言葉を聞き、サナルもはっとする。 彼の視線の先。部屋の入口の前に、いつの間にか、あの少女が立っていたのだ。 表情の乏しい白い顔は、真っ直ぐコテツへと向けられている。 その瞳に含まれる色が怯えなのか、それとも別の感情なのか。サナルには判断できなかった。 呆然とする少年たちを現実に引き戻すかのように、プリシラの声が響く。 「お主である必要はないんじゃよ、コテツ」 もし、コテツがそれを望まないのであれば。代わりに、自分が手を汚してもいい。 むしろ、そうすべきだ。 プリシラの瞳は、彼にそう語りかけていた。 「可哀想じゃが、あの子はもう生きてはいないんじゃ。 “死神”の力で、生と死の狭間に取り残されておるだけなんじゃよ」 「そういう問題じゃねえっ!」 声を荒げるコテツの横顔と、無言で立ち尽くす少女の顔を、交互に眺める。 誰が手を下すか。あの少女の生が、どういったもので成り立っているのか。そんなことは、この際関係がないのだ。 重要なのは――そう、重要なのは。 コテツを救うためには、あの少女の命を奪わなくてはならないという、たった一つの事実。 自分たちより幼い姿のまま、時を止めてしまった女の子。 彼女を殺せと、プリシラ達は言うのか。 「そんな……」 サナルの喉から、泣き出しそうな呻きが漏れた、その時。 『『『命惜シサニ、アノ娘ヲ滅スルカ。ソレモ良カロウ』』』 何とも、奇妙で不気味な“声”だった。 足の下と頭の上から同時に響くようでいて、低いとも高いとも判然とせず、幾重にも重なって聞こえる。 周囲に顔を向けると、真っ黒な雲に似た影が、少女を取り巻きながらゆっくりと蠢いているのが見えた。 これが、“死神”の正体なのか。二十年も昔に、手違いで召喚されてしまった“悪魔”―― 誰もが圧倒され、その場から一歩も動けない。 “死神”は、まるで睨め回すかの如く、コテツに“声”を浴びせていく。 『『『ダガ、覚エテオクガイイ。娘ノ次ハ、貴様ヲ取リ込ンデヤル』』』 つまり、少女を殺せば、次はコテツが“死神”の拠り代にされるということか。 “声”の威圧感に押されたか、コテツが大きく息を呑み込んだ。 『『『吾ニ喰ワレルカ、吾ノ肉体トシテコノ世ニ在リ続ケルカ、選ベ』』』 心臓を鷲掴みにされそうな重圧の中、渦巻く黒雲を纏った少女が悲痛な叫びを上げる。 ――お願い、やめて。 「……!!」 その声に、コテツが弾かれたように少女を見た。 ぶ厚く黒い雲の隙間を縫って、二人の視線が交錯する。 垣間見えた少女の面には、深い悲しみと孤独の色があった。 ――こんな思いをするのは、わたしだけでいい。 もう一度、コテツが大きく息を呑む。 「……っ!」 彼は、サナルに聞こえない短い呟きを漏らすと、すぐさま身を翻した。 再び振り返った時、その右手にはしっかりと愛用の剣が握られている。 次の瞬間、コテツは躊躇いなく剣を抜き放っていた。 |
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4.切っ先は鋭く、痛みはどこまでも深く 【輝虹暦30年11月2日 21時】 |
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「――コテツ!?」 「コテツ君……!」 剣を抜き、厳しい表情で前を見据えるコテツ。 眼前の光景に、サナルは勿論、アヤとプリシラまでが驚きを露わにしていた。 「待つんじゃ、コテツ」 「ここに来て、待ったは無しだぜ……婆さん」 「じゃが……」 コテツの意図は、誰の目にも明らかだった。 彼は、あの少女を永遠の苦しみから解放するつもりなのだ。 その剣をもって、彼女の命を絶つ。 少女は死と引き換えに“死神”の手を離れ、代わりにコテツが“死神”の拠り代となる。 肉体を失い、生き物の間を渡り歩いて、十日ごとに“餌”として喰らわれていく命を、ただ眺める――永遠に途切れることのない、残酷な螺旋の繰り返し。 そんな運命を、コテツは自ら受け入れようというのか。 「あいつは、二十年耐えたんだ。百年や二百年くらい、どうって事はねえ」 「何も、若いお主が犠牲になることはないんじゃ。それならワシが……」 「駄目だ」 プリシラを制しながら、コテツの視線は少女を取り巻く黒い雲に注がれていた。 剣を構え、重心を落とし、“死神”の化身たるそれに向かって、声を張り上げる。 「あの偉そうなダミ声暗闇野郎はな、俺を獲物に選びやがったんだよ! だったら、喰うか喰われるか、戦うのは俺しかいねえんだッ!」 もう、こうなっては誰にもコテツを止められない。 プリシラも、アヤも、それ以上は、何も口に出そうとはしなかった。 犬のとらですら、「くぅん」と小さな鳴き声を上げたきり、主人を黙って見上げている。 「コテツ……」 サナルが遠慮がちに呼びかけると、彼は前を向いたまま、短く、抑えた口調で答えた。 「悪ぃな。後、頼むわ」 そのまま、コテツは剣を構えて少女のもとへ歩を進める。 彼が一歩踏み出すたび、黒雲がじわりじわりと、意志ある生物のように蠢いた。 少女との距離は――あと、五歩。 「泣き叫んでいいんだぜ。人殺しと、罵ってくれてもいい」 ――お兄ちゃん。 四歩。少女の瞳が、切なげに潤む。 「俺は、お前を殺すんだ」 三歩。コテツの声が、感情に揺らいで詰まる。 「……お前を、助けるためじゃない。だから」 二歩。足取りが、一段と重くなる。 「そんな顔、しないでくれ……」 一歩。 とうとう、コテツの足が止まった。 「コテツ――」 「……大丈夫。大丈夫だ……!」 サナルの声に、コテツの背中が、肩が、大きく震える。 その刹那。少女の内側から黒い雲が業火の如く噴き出し、全身を覆い尽くすように渦を巻いて荒れ狂った。 素早く剣を構え直し、残された最後の一歩を踏み越える。 声を限りに、コテツは吼えた。 「邪魔を、するんじゃ……ねえぇ――――ッ!!」 白刃が閃き、黒雲を一直線に切り裂く。 開けた視界の中心に向かって、コテツは迷わず剣を突き入れた。 向かう先にあるのは、少女の心臓。 何の抵抗もなく、それは柄まで彼女の胸に埋まった。 背中から、胸から、そして口から。 まるで悪い冗談のように、幼い身体から、真っ赤な血が流れた。 剣に貫かれたまま、少女がニ、三歩、後退さるようによろける。 コテツが両腕を伸ばし、その身体を受け止めると、彼女は焦点を失いつつある瞳を彼の方へと向けた。 唇を動かし、何事か呟こうとする。 しかし、そこから漏れるのは苦しげな息遣いと、流れ落ちる血の一筋だけだった。 コテツは、サナルたちに背を向けたまま少女を抱えている。 その表情はここからは窺い知ることはできなかったが、彼もまた、彼女をじっと見ていた。 そして、コテツの右手が、少女の胸に突き立った剣の柄に伸びる。 逡巡するように動きが止まったのは、ほんの一瞬だった。 赤く濡れた刀身が引き抜かれ、新たな鮮血が滲み出しては溢れる。 少女の生命の、最後の一滴まで流しきるかの如く。 「…………………………〜〜〜〜ッ!!」 血の海と化した部屋、自らと少女を朱に染め、天を仰いでコテツが叫ぶ。 言葉にすらならない咆哮は、どこか獣の遠吠えに似て、そして限りなく痛みに満ちていた。 サナルは、ひたすら少女の顔を見つめる。 本当は、目を逸らしたかった。でも、それを許すわけにはいかなかった。 最後まで見届けると、自分は誓ったのだから。 やがて、彼女がゆっくりと目を閉じ、その呼吸が途絶える。 真っ白な光が部屋中に広がったかと思うと、サナルの意識は急速に呑みこまれていった。 |
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5.二つの覚悟 【輝虹暦30年11月3日 14時】 |
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雲一つなく、晴れ渡った空。その下を、サナルは、軽く息を弾ませながら走っていた。 季節は、既に秋から冬へと移り変わろうとしている。吹き抜ける風の冷たさが、火照った体に心地いい。 今日の日付は、11月3日。“死神”がコテツに定めた、“運命の十日間”の最終日である。 本来ならば、コテツはこの日の夜明けとともに、“死神”に命を喰われて死ぬはずだったのだが―― 昨夜、全てが白い光に包まれた後。 あの部屋にいた者たちは皆、いつの間にか眠りこんでしまっていたらしい。 今朝になってサナルが気がついた時、プリシラも、アヤも、床やベッドの上に倒れこむように寝ていた。 一番心配されたコテツもそれは同様で、サナルは大いに胸を撫で下ろしたのだが、同時に、幾つか腑に落ちないことも出てきた。 一つは、“死神”がどこに消えたのか、ということ。 “死神”のあの時の言葉が正しければ、コテツは次なる拠り代として、肉体ごと連れ去られているはずだ。 しかし、コテツはぐっすり眠ってはいたものの、その他はまるっきり健康そのもので、異常は見当たらなかった。 “餌”の証として胸の中央にあったアザも、跡形もなく消え去っている。 つまり、“死神”は滅びたのだろうか。 あの言葉は、追い詰められ、苦し紛れに発した脅しに過ぎなかったのか。 答えはわからないが、コテツが無事に生き延びたことは確かだ。 今は、それで良しとしよう――これが、サナルたち三人が出した結論だった。 もう一つ。部屋には、少女の遺体はおろか、血痕一つも残されていなかったのだ。 あれだけ大騒ぎをしたにも関わらず、階下や隣室からの苦情もまったく聞こえてこない。 昨夜の出来事が、まるまる悪い夢であったかのように。 でも、あれは間違いなく現実であったはずだ。 一夜が明けても、記憶は生々しい感覚を伴って、サナル達の脳裏を大きく占めている。 あの禍々しい“声”は、少女の寂しげな表情は、コテツの叫びは、決して夢などではなかった。 一気に緊張の糸が切れたためか、あるいは精神的な衝撃が大きすぎたのか、コテツはただ一人、なかなか目を覚まそうとしなかった。 今はそっとしておこうと、そのまま寝かせてやることにしたのだが、昼食に出かけたサナルが部屋に戻った時、コテツの姿は忽然と消えていた。 とらの姿も見当たらなかったので、一緒にどこか出かけたのだろう。 それ自体は不自然なことではないが、食事も取らずに行った、というのが少し引っかかった。 そこで、サナルはコテツを探して、心当たりの場所を走り回っていたのである。 幾つか空振りを繰り返した後、サナルはようやく、コテツと、とらの姿を見つけた。 そこは街外れに広がる空き地で、周囲がなだらかな傾斜になっているため、ちょっとした丘のような地形を作っている。 コテツはその真ん中に胡坐をかき、とらの頭を撫でながら、どこかぼんやりとした様子で空を見上げていた。 「――コテツ」 駆け寄り、背後から声をかけると、彼はサナルの方をゆっくりと振り返った。 「いきなりいなくなるから、探したんだぞ」 「……」 黙り込んだまま目を逸らすコテツに小さく溜息をつき、彼の隣に腰を下ろす。 コテツはしばらく愛犬を撫で続けていたが、おもむろに手を止めると、傍らに置いてあった剣を引き寄せた。 両の手でそれぞれ鞘と柄とを握り、剣を抜く。 陽の光を反射して輝く白刃は、一点の血の曇りも見当たらなかった。 それを眺めるコテツの表情に、苦いものが混じる。 コテツが何を思っているのかは、サナルにも予想がついた。 昨夜、あの少女を貫いたのは、この剣であったから。 「……後悔、してる?」 「いや」 思わず口をついて出た問いに、コテツがごく短く答える。 「あの時、ああしなかったら……死んでたのは、俺だった」 淡々とした声とは裏腹に、彼の眉根はきつく寄せられていた。 「だから、殺した」 剣を鞘に収め、肩が震えるほど強くそれを握り締める。 「俺が、あいつを殺したんだ……」 コテツの気持ちは、痛いほどよくわかった。 そこにどんな理由があろうと、人ひとりの命を奪ったのだ。 しかも、自分より小さな、無抵抗の女の子を。 “死神”は滅び、コテツは拠り代となることを免れた。 結局、生き延びてしまったのだ。幼い命を、代償に差し出してまで。 励ましの言葉が見つかるわけもなく、サナルが黙り込んでしまうと、コテツは顔を上げて呟いた。 「――『斬られる覚悟』と『斬る覚悟』」 「え?」 「昔、親父に言われたんだ。剣を取るなら、それを両方持っておけって。 ようやく、その意味がわかったような気がする……」 「……コテツ」 「たとえ、あいつが俺を恨んで死んでいったとしても。 あいつを殺した俺は、それを背負ってかなきゃならねぇ。 剣を振るうってことは、そいつを重ねて生きるってことなんだ」 痛みの中に悲壮なまでの決意を滲ませ、コテツは奥歯を強く噛み締める。 あの少女が最期を迎えた時、彼女はコテツの顔をずっと眺めていた。 死にゆく瞳で見たものは、彼のこんな表情であったのだろうか。 ――ああ、そうか。だから、あの子はあんな顔をしていたんだ。 「大丈夫だよ。きっと」 「?」 「おれ、見てたんだもんね」 確信を込めて、サナルはニッと笑ってみせる。 「あの子さ、笑ってたんだよ。ずっと、コテツに笑いかけてた……」 ――わたしは大丈夫。だから、お願い。どうか、自分を責めないで。 サナルには、あの笑顔はそう言っているように見えた。 命を奪った罪は決して消えることなく、コテツは決して自らを許しはしないだろうけれど。 それでも、これが彼にとって、いくばくかの救いとはなり得ないだろうか。 たとえその身を血で濡らし、激痛に貫かれようとも。 それでも、少女は微笑みながら逝くことが出来たのだと。 コテツは、しばらく口を噤んだまま目を伏せていたが、ふと顔を上げ、青い空を仰ぎ見た。 「ハヤの奴……今頃、親父さんに会えたかな」 「――ハヤ?」 「そ、ハヤ。あいつの名前」 遠く高い空を眺めて、コテツが目を細める。 ようやく、その口元に微笑らしきものが浮かんだ。 「名乗ったのは随分久しぶりだって、そう言ってた」 「そっか……」 相槌を打ちつつ、サナルもまた、視線を空へと向ける。 そこでは、小さな白い雲が、一回り大きいそれに寄り添うように、どこまでも優しく流れていた。 |
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【エピローグ】 ―その時の二人― 【輝虹暦30年10月31日 22時】 |
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なあ、一つ訊いていいか? ――なあに? お前さ、名前は何ていうんだ? ――わたしの、名前? いや、言いたくないなら、いーんだけど……。 ――ハヤ。 ハヤ? そいつが名前か? ――うん。 どうした? ボーっとして。 ――ううん。久しぶり、だったから。 ……? ――名前。ずっと、言ってなかったの。だから、忘れそうだった。 そっか……。 ――あのね。わたし、オズにいたの。 オズ? 一晩で虹の城が消えたっつーあれか? ――うん。わたしがいた時は、まだあったけど、お城。 確か、今は誰も近づけないんだっけか。 ――よくわかんないけど、そうみたい。 ……ハヤ? ――なんでもない。ただ、思い出しただけ。 何をだ? ――わたしの家。 ……家? ――お父さんと住んでたの。青い三角屋根で、窓からお城が見えて。 お前の、家……。 ――帰りたい。もう一度、お父さんに会いたい。 ……。 ――ねえ、お兄ちゃん? ……ん? ――わたしのこと、忘れないでね。 え……? ――ごめんね、もうすぐ死んじゃうのに。でも、お願い。忘れないで……。 ああ、約束する。 ――ずっと? ずっと覚えていてくれる? たとえ地獄に落っこちても、覚えててやるよ。約束だからな。 ――ありがとう。嬉しい……。 ば、ばか。こんな事で泣くなよ……。 ――だって、本当に嬉しいんだもん。ありがとう、お兄ちゃん。 お、おう。……んなもん、礼言われるほどのことでもねえ、けどよ……。 ――ううん、そんなことない。 だから、そんな顔すんなってば……。 ――どうして? どうしても。 ――? ……もう寝る、おやすみ。 ――おやすみなさい。 …………………………………………………………………………
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〔執筆者あとがき〕 |
この『十日間』の物語は、これで終わりです。 自らの命の期限との対峙、それに対する恐怖、死より残酷な運命、殺める罪との葛藤、そして家族の絆。 エピソードの中には、そういったテーマを色々と詰め込んでいます。 正直、あのクライマックスシーンは凄惨に過ぎたかもしれませんが、どうしてもあそこは譲れない部分でもありました。 どんな理由があろうと、“人の命を奪う”行為である以上、それを美しく描くべきではないと考えたからです。 ――他者の血を流し、傷つけ、激しい苦痛を与えて、最後に生を絶つ。コテツが選んだのは、そういった業を背負っていく道でした。 同時に、これは戦士として生きていく上で、必ず通らなくてはならない道でもあるのでしょう。 余談ではありますが、この特別編を書く際、私のインスピレーションに大いに貢献してくれた曲があります。 物語の隠れたテーマソングとして、以下に紹介させていただきます。 ・『カルマの坂』 ポルノグラフィティ ・『GOODBYE EARTH』 ZABADAK 最後に、この物語をラストまで読んでいただいた全ての皆様に感謝を。 ありがとうございました。 |
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