New Generations
優しさの還る場所
AkiRa(E-No.451PL)作


1.空虚な闘争
2.戸惑う野良犬
3.孤独という名の鎧
4.いつも、気付くには遅すぎて
5.想いが巡り、届く日まで
〔執筆者あとがき〕


1.空虚な闘争

そこにあるのは、ただ怒りだけだった。
頬に当たる砂の熱さも、肌を灼く夏の日差しも、むせ返るような土と血の匂いも、そして、全身を苛む鈍い痛みさえも。
心に響くものは、何一つとしてない。

何に対して腹を立てているのかも、判然とはしなかった。
個々では敵わぬからといって、群れをなして襲いかかってきたあの少年たちだろうか。
幾人かは道連れにはしたものの、とうとう数に屈して地に伏している自分の不甲斐なさだろうか。
それとも――
思考は、いつもここで止まった。

傷だらけの両手で、力の限り地面を掻きむしる。
しかし、掴めたのは血に汚れた砂と土だけ。他には、何もなかった。
身体から、一気に力が抜ける。

自分で立ち上がれないほどの怪我では、ないはずだった。
手ひどくやられたとはいえ、骨や頭部に深刻なダメージはない。この程度なら、放っておいても数日で治るだろう。
だが、そうとわかっていてもなお、身じろぎ一つできなかった。
動くという意志そのものが、根こそぎ奪われてしまっている。

最近は、いつもこうだ。
怒りに任せて殴り合う間は良い。全身をそれに支配され、全てを忘れていられる。
しかし、一度戦いが終ると、途端に空っぽになる自分がいた。理由など、わかるはずもない。

何もかもがどうでも良くなり、しばらく地面に伏していると、ふと、柔らかな手がそっと頭に触れた。
僅かに顔を上げると、そこには亜麻色の長い髪の少女。
スカートが汚れるのも構わず膝をつき、こちらの様子を窺っている。
優しげな青灰色の瞳が、自分を見つめていた。

「――気がついた?」

声をかけてくる少女に、何と答えて良いかわからず口ごもる。
そもそも、気絶していたわけではないからだ。
しばらく黙っていると、少女は微笑んでこう言った。
「とにかく、傷の手当てをしないといけないわね。
 一度、うちへいらっしゃい。立てる?」
差し伸べられた手の白さに、やや気恥ずかしさを覚えて目を逸らす。
「……いーよ。自分で立てる」
口の中で呟くように答えて上体を起こし、地面をしっかりと足の裏で踏みしめる。
服の土を払いつつ立ち上がると、視界の隅で安堵の表情を浮かべる少女が見えた。
続いて、鈴を揺らすような声が穏やかに響く。

「私はナスリーン。あなたは?」
「……コテツ」

名を告げると、少女――ナスリーンは嬉しげに笑った。

2.戸惑う野良犬

窓から吹く風が、白いレースのカーテンを涼しげに揺らしていた。
広い部屋には繊細な拵えの家具が品良く配置されており、ざっと見渡してみても塵一つ見当たらない。
血と土に汚れた自分がひどく場違いな気がして、コテツは居心地の悪さにただ黙りこくっていた。
あてがわれた椅子から足を投げ出し、左手で頬に当てたハンカチを押さえる。
殴られて腫れた顔を冷やすため、ナスリーンが水で濡らして持ってきてくれたものだ。
冷たさが、火照った身体に沁み渡る。

ふと窓の外を覗くと、美しく整えられた庭の向こうに、先ほどまで自分が伏していた広場が見えた。
いつも少年たちと殴り合う戦場も、ここから眺めるとまるで別の場所のように思える。
あるいは、この家そのものが別世界であるのかもしれない。
ナスリーンに連れられるままに足を踏み入れたここは、とある名士の住む屋敷だ。彼女は、その一人娘というわけである。
年齢は十七歳とのことで、コテツより七つほど年上だった。

「思ったより怪我が軽くて良かったわ。コテツちゃんは強い子なのね」
一通り傷の手当てを終え、救急箱の蓋を閉じながらナスリーンが微笑む。
楚々とした美しい顔を向けられ、コテツはどうしていいかわからずに沈黙するばかりだった。
あの優しげな青灰色の瞳に見つめられると、何故か胸が詰まる。
「どうしたのコテツちゃん? どこか痛む?」
そんな心のうちを知る由もなく、再び声をかけてくるナスリーン。
正体のわからない感情のざわつきは、やがて苛立ちとなって外に飛び出した。

「――うるせぇ。おれをコテツちゃんなんて呼ぶな」
「どうして? 可愛いじゃない」
微笑を崩さぬまま、ナスリーンが小首を傾げる。
思わず、コテツは声を張り上げていた。
「おれは男だぞ、男に可愛いなんて言うんじゃねえっ!」
怒鳴った後、しまった、と後悔がよぎる。
コテツはナスリーンが泣き出すことを覚悟して様子を窺ったが、彼女は穏やかに笑っているだけだった。
困惑が押し寄せるとともに、再び苛立ちが募っていく。
「……っ」
ナスリーンが何を考えているのか、コテツには全くもって理解できない。
足元にいる彼女の飼い犬が、黒く丸い瞳で自分を見上げてくることすら、今は腹立たしく思えた。

――これ以上、付き合ってられるか。

眉間に皺を寄せ、席を立って短く言い放つ。
「帰る」
「あら、もう? ゆっくり休んでいいのよ」
ナスリーンに声をかけられるたび、どうしてこうも心がかき乱されるのだろう。
動揺を悟られぬよう、努めて平坦に声を絞り出す。
「……帰るったら、帰る」
「そう。じゃあ、またいつでも来てね」
ここに来ても、ナスリーンの態度は先程からいささかも変わることがない。
いたたまれなさに、胸が押し潰されそうだった。
「もう来ねぇよっ!」
叫ぶが早いが、開いた窓から身を躍らせる。
庭に出ると、コテツは振り向かずに全力で駆けた。一刻も早く、ナスリーンから逃れたかったのだ。


どれだけ走り続けただろうか。誰もいない場所まで辿り着いたのを確認し、ようやく息をつく。
肩で大きく呼吸を繰り返しつつ、コテツは混乱する思考を少しずつ整理していた。
脳裏に、ナスリーンの慈愛に満ちた眼差しがよぎる。どうして、彼女はあんな目で自分を見るのだろう。

毎日のように喧嘩に明け暮れるようになったこの数年間、世間はコテツをまるで野良犬のように扱った。
幼い頃から戦士であった父に教えを請い、身体を鍛えてきた彼にとって、近所に住む少年たちなど相手になるはずがない。
その力加減を少しばかり誤ったのが、不幸の始まりだった。
まず叩きのめした相手の恨みを買い、他の子供たちからは恐れられ、その親たちから疎まれた。

孤立するコテツに対して悲しげな顔を向ける母親、呆れ顔で溜息をつく妹、そして――いつも通りの姿勢を崩さず、何も言わない父親。
そういった家族の態度がコテツの苛立ちを煽り、暴力となって発露する怒りが、ますます人を遠ざける。
ナスリーンのように屈託なく声をかけてくる者など、今まで一人としていなかった。
だから、彼女が理解できない。初めて向けられた優しさに、どうしようもなく戸惑ってしまう。
胸の鼓動がやけに高鳴るのは、全力疾走の直後だからだろうか……?
なかなか収まらない動悸にやきもきしていると、ふと、左手に握り締めたハンカチが目に入った。

「あ……」

慌てて飛び出してきたせいで、そのまま持ってきてしまったらしい。
しばらく呆然とそれを眺めていたコテツだったが、やがて、彼は大きく溜息をついた。
「何だってんだよ、今日は……もう知らねーぞ、おれはっ!」


その数日後、コテツは再びあの屋敷を訪れた。
本当はもう近付きたくもなかったのだが、それでも、人のものを持ち逃げするような真似だけはしたくなかったのだ。
人目につかないように庭の裏手から忍び込み、記憶を頼りにナスリーンの部屋の窓を叩く。
ややあって、別れた時と寸分違わぬ笑顔が彼を迎えた。
「あら、コテツちゃん。いらっしゃい」
その声に再び胸が高鳴るのを感じつつ、できるだけ目を見ないように顔を逸らす。
ずいとハンカチを差し出し、コテツは一息に声を絞り出した。
「勘違いすんなよ。これ……返しに来ただけだかんな」

3.孤独という名の鎧

「コテツちゃんは、いつも一人なのね」
いつもの如く傷の手当てを終えると、ナスリーンはそう口を開いた。
「……」
対するコテツは、無言。
ナスリーンと出会ってから既に数ヶ月が過ぎていたが、相変わらず、こういう時に何と答えて良いかがわからない。
そもそも、自分はどうしてここにいるのだろう。
返し忘れていたハンカチを届けに来たあの日から、コテツは誰かと喧嘩をするたび、ナスリーンの家を訪れていた。
人目につかぬよう裏手から庭へと入り、窓を軽く叩く。そうすると、ナスリーンはいつも笑って出迎えてくれた。
会ったら会ったで、そんな彼女に戸惑ってばかりいるのだが、わかっていても、何故かここに足を向けてしまう。
コテツには、それが不思議でたまらない。

「――他の子と、遊んだりしないの?」
しばらく黙っていると、ナスリーンが小さく首を傾げながら問いかけてきた。
正体の知れない憤懣と寂寥感が、もやもやと心に渦巻く。
「冗談じゃねぇ。誰が、あんな奴らと……」
喧嘩相手たちの顔を思い浮かべつつ、眉間に皺を寄せて答える。
弱いもの苛めも、喧嘩も、彼らはいつも大勢でしかやらない。群れの中で自分の場所を確保しておかないと、何一つできやしないのだ。
「寂しくない?」
「ねぇよ!」
あんな卑怯者と一緒にされたくはないという思いから、つい語気を荒げてしまう。
それを聞き、ナスリーンの表情が僅かに翳った。
「そう。強いのね、コテツちゃん」
「……?」
「わたしは、寂しかったわ」

意外な言葉に内心で驚きつつ、ナスリーンを見る。
考えてみれば、彼女が自分のことを語るのはこれが初めてかもしれない。
出会ってからというもの、ナスリーンはコテツに様々な質問をした。
そのほとんどは、兄弟はいるのかだとか、好きな食べ物は何かとか、ごく他愛のない内容だ。逆に訊かれて困るものもなかったので、コテツは面倒に思いながらもそれに答えていった。時には一つの単語で済んでしまうような素っ気無い返答も、彼女は一つ一つ興味深げに聞いていたものだ。
一方、コテツはナスリーンをほとんど知らなかった。それどころか、知ろうとすらしていなかった。
彼女についての知識は、外見的なことを除けば、この家の娘であることと、身体があまり丈夫ではないということ――たった、これだけ。
二つ目については、その白すぎる顔と、時折やや苦しげに咳き込んだりする様子で、何となく察した。

「小さい頃から病気ばかりで、他の子と一緒に遊べなかったの。
 コテツちゃんに会ったあの時も、外に出たのはずいぶん久しぶりだった」
後に続いたナスリーンの言葉が、コテツの推測を裏付ける。
どう返したものか迷っていると、ナスリーンはこちらを見てにっこりと笑った。
「だから、コテツちゃんとお友達になれて、わたしは嬉しいの」
「……」
ナスリーンは嘘をつかない。彼女がコテツを心から歓迎してくれていることは、痛いほど感じている。
しかし、それはあくまでもナスリーンただ一人に限られた。彼女こそが、例外なのだ。
自分が、陰で“触れるもの全て噛みつかずにいられない野良犬”と評されていることも、この屋敷の人間が、自分の訪問を決して快く思っていないだろうことも、知っている。
敵意と嫌悪に満ちた視線を、当たり前のこととして慣れてしまったのは、いつからだっただろう。
だから、ここにいてはいけないのかもしれないと思う。自分と一緒にいては、他の者をますます遠ざけるから。
そんなことを考えていると、ナスリーンが再び問いかけてきた。

「ねえ。コテツちゃんは、どうして他の子と喧嘩をするの?」
「理由なんかねえよ。おれはケンカが好きなんだ」
ぶっきらぼうに答え、ナスリーンを睨む。
しかし彼女は恐れた様子もなく、さも不思議そうに首を傾げていた。
「本当に?」
「……お前だって、みんなそう言ってるの知ってんだろ」
漠然と抱いていた不安が、とうとう口をついて出る。
このあたりに住んでいれば、自分の悪い噂は少なからず耳に入るはずだ。にも関わらず、どうして彼女は自分を受け入れるというのだろう。
言ってからコテツはしまったと思ったが、対するナスリーンはそれでも微笑を崩さなかった。
「人の言うことが、全部本当とは限らないわ」
「なんだよ、さっきから」
全てを見透かしたようなその態度に苛立ち、憮然と言い放つ。
堪らず顔を背けた時、ナスリーンは唐突に話題を変えた。

「コテツちゃん、リリを覚えてる?」
「?」
振り向き、ナスリーンに寄り添うように佇む白い犬の姿を認める。
その飼い犬の名前が、確かリリといったはずだ。
呼ばれたと思ったのか、犬が黒い瞳でナスリーンを見上げる。
ナスリーンはその頭を軽く撫でた後、ゆっくりとコテツに語りかけた。
「二年くらい前だったかしら。この子、迷子になったことがあるの。
 まだ小さかったから、自分では帰って来れなかったのね。
 そうしているうちに、近所の男の子たちに捕まっちゃって。
 わたしが見つけた時は、リリはその子たちに囲まれて怯えてた」

話を聞き、心当たりを何人か頭に思い浮かべる。
無力な仔犬をよってたかって取り囲むなど、いかにも彼らのやりそうなことだ。
今までも、何度そういう場面を目の当たりにしたかわからない。
「わたしは、怖くて動けなかったの。
 リリが耳や尻尾を引っ張られて鳴いても、助けに行けなかった。
 そこに来てくれたのが、コテツちゃんだったわ」
「……」
無言で驚きつつ、ナスリーンを見る。
確かに、コテツは弱いもの苛めが嫌いだった。対象が何であれ、その卑怯極まりない行為がまず許せないのだ。
だから、そんな現場に出くわすたび、容赦なく彼らを叩きのめしてきた。
そのうちの一回が、リリが捕まった時だったのだろうか。
コテツは記憶を辿ったが、思い出すことはできなかった。
そもそも、喧嘩となればほとんど周りが見えなくなる。動機が怒りであれば、尚更のこと。
そういった戦いぶりがあまりに苛烈であったがゆえ、コテツは恐れられ、疎まれてきたのだ。
返答に窮して沈黙を続けるコテツに、ナスリーンのどこまでも優しげな瞳が向けられる。

「それから、わたしはこの窓から何度もコテツちゃんを見たわ。
 いつも一人で、他の子と会うと喧嘩ばかりで、傷だらけになって帰って。
 ――でもね、わたしは知っているのよ。
 コテツちゃんが、自分からあの子たちを叩いたことがないってこと」
「!」
瞬間。衝撃が、強く心を揺さぶった。
誰に言われるわけでもなく、自らに課していた枷。それを、ナスリーンは知っていたというのか。
「みんなが言うように乱暴なら、そんなはずはないわ。
 コテツちゃんは、本当は優しい子なのよ」
迷いのない言葉が、追い討ちをかけるかの如く響く。
「……ちがう」
ふらりと席を立ち、力なく首を横に振る。湧き上がる感情は、どこか恐怖にも似ていた。
しかし、ナスリーンはそんなコテツを捉えて離さない。
「違わないわ。みんな、怖がっているだけ。
 コテツちゃんが、いつも何かに怒ってばかりいるから。
 叩かれて、痛い思いをするんじゃないかって、そう思っちゃうのよ」
「……ちがう……!」

――もうやめてくれ。哀願にも似た思いが、コテツを埋め尽くす。
この調子でいけば、いつかナスリーンは自分の全てを知ってしまうだろう。

自らの弱さを隠すため、孤独に逃げていることも。
越えるべき壁がありながら、それを見上げているしかできない不甲斐なさも。
ナスリーンにだけは、知られたくはなかった。

優しさが怖い。暖かく、心に触れてくるものが怖い。
それに甘えて、一人で何もできなくなることが、何よりも怖い。
群れるだけの卑怯者には、なりたくないのだ。

「怒りには怒りが、優しさには優しさが返って来るの。
 だから、コテツちゃんが笑えば、みんなきっと笑ってくれるわ」
「やめろ!」
堪らなくなり、コテツはとうとう叫び出していた。
「勝手なこと言うな! おまえにおれの、何がわかるってんだ!」
「コテツちゃん……」
驚いて息を呑むナスリーンに構うことなく、感情に流されるままに怒鳴り続ける。
「おれは優しくなんかねえ! 笑ってなんか、ほしくねえんだよ!」
何もかもが、嫌だった。
心に踏み込むナスリーンの暖かさも、それを拒絶する自らの戸惑いも、すべて。

「――友達なんか、いらねえっ!!」

悲鳴にも似た叫びが喉を震わせると同時に、コテツは身を翻していた。
もう、ナスリーンの顔を見ることすらできない。
「コテツちゃん! 待って、コテツちゃん!」
窓から飛び出した瞬間、背後からナスリーンが自分を呼ぶ声が響いた。
耳を塞ぎ、なりふり構わずに走る。無論、戻るつもりなどなかった。

4.いつも、気付くには遅すぎて

それから半年近く、コテツはナスリーンと会わなかった。
屋敷に近寄らなかったのは勿論、彼女の目に触れないよう、喧嘩をする場所までも変えた。
あれから少しは冷静になり、ナスリーンに悪いことをしてしまったということは自覚している。
しかし、謝りに行く勇気まではどうしても持てなかった。まだ、彼女と向き合うのが怖かったのだ。
ようやくそれを決断できた時には、もう冬も終わりを告げようとしていた。

久々にナスリーンの部屋を訪れ、その窓を恐る恐る叩く。
すると、リリが窓を押し開きつつ顔を出してきた。
「……何だ、おまえか。おどかすなよ……」 
現れたのがナスリーンでなかったことに、多少の失望と安堵が入り混じる。
コテツは次いで彼女が姿を見せるのを待ったが、数分が過ぎてもそんな気配すらない。それどころか、部屋は妙に静かだった。
やはり、怒っているのだろうか。それとも、具合が悪くて床に伏せているのだろうか。
「あいつ、今どうしてる?」
訝りながらリリに問うが、返ってきたのは小さな鳴き声だけ。
いてもたってもいられなくなり、コテツはとうとう窓枠へと足をかけた。
「――入るぜ」
短く言うと、主の返答を待たずに踏み込む。
その瞬間、彼は自らの目を疑った。
「な……!」

眼前に広がるのは、がらんとした部屋。カバーもシーツもない剥き出しのベッドを始め、僅かな家具だけがそこに残されていた。
一瞬部屋を間違えたのかと思ったが、窓枠に刻まれた見覚えのある傷が、紛れもなくそこがナスリーンのいた場所と証明している。
しかし、だとするならば。どうして彼女はいないのだろう? 整えられた庭も、この屋敷も、リリも、変わらずあるというのに。
困惑するコテツの耳に、扉越しに使用人と思しき女たちの声が聞こえてきた。

「早いものね、もう二ヶ月が経ったなんて」
「お嬢様もお可哀相に。まだ、十七歳だったでしょう?
 旦那様や奥様も、すっかり気を落とされて」
「仕方ないわ、悪いご病気だったのですもの」

廊下を通り過ぎていく囁きに、身を隠すことも忘れて立ち尽くす。
「……!」
あの会話から導き出される結論は、たった一つしかない。だが、それを認めたくはなかった。
「……ウソ、だよな?」
リリの傍らに膝をつき、顔を覗き込みながら問う。
しかし、当然ながら答えはない。
それでも、コテツは問いかけるのをやめなかった。リリを軽く揺さぶり、顔を伏せ、歯を食いしばって。
血を吐くような思いで、震える声を絞り出す。
「なあ、ウソだって言えよ……!」
そんなコテツを、リリの寂しげな黒い瞳が静かに見つめていた。


それからどうやって家に帰ったかは、あまりよく覚えていない。
気がつくと、灯りもなく真っ暗な自室でベッドの上に座っていた。
混乱に痺れきっていた頭はようやく落ち着いてきたが、入れ代わりに、耐え難い喪失感が押し寄せる。
もう、ナスリーンが自分の名を呼ぶことは、決してないのだ。

――コテツちゃんは、本当は優しい子なのよ。

脳裏に、ナスリーンの言葉が蘇る。
同時に湧き上がったやりきれない思いが、口をついて出た。
「……そんなわけ、あるかよ……」
優しかったのは、いつでもナスリーンの方だ。
自分は、そんな彼女にただ甘えていたに過ぎない。

――怒りには怒りが、優しさには優しさが返って来るの。

迷いなくそう言ったナスリーンの姿は、記憶の中でどこまでも眩しかった。
「ウソつき」
呻くように呟きながら、ベッドに突っ伏す。
「……おまえ、ウソつきだ……」
脳裏に、ナスリーンとの出会いから別れまでの場面がぐるぐると回る。

「おれ……まだ、おまえに何も返してねえよ……!」

与えられなかったばかりか、拒絶した。
振り返りもせず逃げたあの時、ナスリーンは深く傷ついたに違いない。
彼女を独りにしたのは、他ならぬコテツ自身だ。
決して取り返しがつかない今になって、ようやくそれに気付いたのだ。

「――ナスリーン」
面と向かってはとうとう呼べなかった名前を、初めて口にする。
しかし、それに彼女が答えることは永遠にない。
「何とか言えよ……ナスリーン……!」
胸を裂かれるような思いで、再び名前を呼ぶ。
喪失の痛みに、押し潰されてしまいそうだった。
「う……あっ……あぁ……ッ!!」
枕を握る両手に力を込め、顔を強く押し付けて泣く。
慟哭が、暗い夜の闇へと静かに吸い込まれていった。

5.想いが巡り、届く日まで

この日もまた、コテツは戦っていた。
ナスリーンを失ってから、早一ヶ月。あれから喧嘩の回数こそ変わらなかったものの、常に心にあった燃え盛るような怒りは、もうない。
胸を吹き抜ける空虚感から、あらゆることに勢いを無くしていたのだ。
その静けさが逆に不気味だと囁かれたが、そんなことはどうでもよかった。

――やがて、目の前から“敵”の姿が消えた。
残らず地面に伏した少年たちを一瞥し、そのまま踵を返す。
最近では多対一でも決して負けないくらいに腕を上げてはいたが、それを誇るつもりは毛頭ない。
弱いもの苛めも、それを叩きのめすことも、本質においては変わらないからだ。
即ち、何も与えられず、何も還らない。
そう悟りつつも喧嘩をやめなかったのは、惰性としか言いようがなかった。
例え逃避に過ぎなくても、じっとしていたら壊れてしまいそうで。
コテツは、ひたすらに拳を振るい続けてきた。

帰ろうと振り向いたところに、地面に座り込む幼い兄妹の姿が視界に映る。
今日、弱いもの苛めの標的とされた子供たちだ。
兄は妹を守るように、妹は兄に縋るように、目を見開いてコテツの方を凝視している。
目が合った瞬間、二人は怯えたようにビクリと身体を震わせた。

こういった反応は、今更珍しくもない。
力において他者をねじ伏せるということにおいては、コテツも苛めっ子と同類だ。
ことさらに怖がらせるつもりもなかったので、そのまま足早に通り過ぎようとする。
その時、コテツは妹の視線が、自分の少し後ろの地面に向けられていることに気付いた。

振り返って見ると、倒れた少年の下敷きになるようにして、白い犬のぬいぐるみが転がっている。
黒くて丸い瞳といい、どこかナスリーンの飼っていたリリを思い出させた。
歩み寄り、覆いかぶさっている少年を無造作に軽く蹴飛ばす。
膝をついてぬいぐるみを拾い上げると、コテツは砂と埃を払いながら兄妹のもとへ戻った。

「――ほらよ」

幾分か白さを取り戻したぬいぐるみを差し出し、短く囁く。
兄妹は再び身体を震わせたが、驚いたように目を丸くしたかと思うと、お互いに顔を見合わせた。
やがて、兄の方がぬいぐるみをコテツの手からおずおずと受け取る。

「兄貴だろ。守ってやれよ」

そう言うと、コテツは兄が小さく頷いたのを見届けてから再び踵を返した。
そのまま立ち去ろうとした時、背中越しに可愛らしい声が響く。

「おにいちゃん、ありがとう!」

驚いて顔を向けると、白いぬいぐるみを抱いた妹が笑顔で手を振っていた。
多少の戸惑いとともに、ぎこちなく手を振り返す。
脳裏に、ナスリーンの言葉が蘇った。

――コテツちゃんが笑えば、みんなきっと笑ってくれるわ。

手を振りながら、いつの間にか微笑っている自分に気付く。考えてみれば、笑うのは随分と久しぶりだ。

――怒りには怒りが、優しさには優しさが返って来るの。

やはり、ナスリーンは嘘をつかなかった。
あの時の言葉の意味を、ようやく心で実感する。
何のことはない。答えは、驚くほどそばにあったのだ。今までは、見てみぬふりをしていただけ。

兄妹に別れを告げ、前を向いて歩き出しながら思う。
ナスリーンに伝えられなかった想い。それを、今からでも返すことができるだろうか。
自分が与えられるのは、彼女の何分の一にもならないかもしれない。
それでも、少しずつ集まれば、いずれはナスリーンにまで届くだろう。

――コテツちゃんは、本当は優しい子なのよ。

春の澄み渡った空に、鈴を揺らすようなナスリーンの声が響いた気がした。


〔執筆者あとがき〕

現在より数年前、壁にぶつかり荒れていたコテツ。これは、そんな彼の悲しすぎた初恋の物語です。
このエピソードが生まれたのは、ひとえにロゼさん(E-No.480)のおかげといっても過言ではありません。
彼女から「コテツちゃん」と呼ばれて存外戸惑ったことが、物語を膨らませるきっかけとなったからです。

内容としては、当初はもう少し淡い感じのエピソードになるはずだったのですが……。
筆者の嗜好と、友人であるくのー氏(E-No.69 ベル姉妹PL)の策略により、こんな暗すぎる展開になってしまいました。

キャラクターとして誕生した直後に比べると、コテツも大分様子が変わってきた気がします。
最初は重い過去を背負わせるつもりもなく、もっと単純で底が浅い少年のイメージだったのですが、時が経つにつれて色々なものを背負い込むように変化していきました。
きっと、これからも悩み、時に苦しみつつ前に進んでいくことでしょう。

色々な意味で危ういキャラクターではありますが、これからもプレイヤーの私自身、彼の成長を見届けていきたいと思います。